超実写版とうたわれたリメーク版が近々公開される。1994年のアニメ版の公開時には、手塚治虫の「ジャングル大帝」との類似点が指摘され、自分もかなり憤っていた覚えがあるのたが、今となってはそのことを口にする者もいない。それは、その後『ライオン・キング』が独り歩きして過去を払拭したからだろうか。あの時はこんなことを書いていた。
『ライオン・キング』(94)(1995.1.2.スバル座)
このところの、一連の“ディズニー復活アニメ映画”とはすっかり縁遠くなっていたし、公開前の“「ジャングル大帝」オリジナル論争”もあって、まず見ることはないと思っていたのに、甥にせがまれて見る羽目になってしまった。という訳で、膝の上や周りの席に子供がいて、集中して見ることはできなかったので、細かいところは抜きにしての話になる。
確かに、「あー『ジャングル大帝』だ」という設定やシーンは端々に見られたから、この映画のスタッフたちの「全く『ジャングル大帝』を知らずに作った」という証言はにわかには信じ難いものがある。けれども、手塚治虫が存命で、この映画を見たとして、果たして本気で怒っただろうか、という疑問も残る。
それは、たとえ、この映画の基のアイデアが明らかに「ジャングル大帝」にあったとしても、自分が尊敬し、憧れ、模倣した本家ディズニーが、自分の作品を、最新の映像システムを使って、さらにスケールアップして“リメーク”してくれたのだから、悔しさもあろうが、むしろ笑って許したのではないか、という気もするのだ。
もちろん、この映画のどこかに“オサム・テヅカ”の名が冠せられていたならば、あるいはスタッフの口から素直にアイデア拝借の件が語られたなら、それはとてもうれしく、誇らしいことであり、これほどの騒ぎには至らなかったのに…と残念に思うところはある。
だが、今のアイデアやストーリーが不足状態の映画界の中で、果たして過去の作品に全く影響されていないものなどあるのだろうか。この映画に限らず、明らかに“リメーク”と思われながらも、それを認めない映画は多々ある。そして、それは、確かに今後改善されるべき問題ではあるのだが、そうした現状の中で、この映画だけを責めるのもどうかとも思うのだ。
まあ、結局のところ、ここまで論争が広がったのは、われわれ日本人にとって手塚治虫がどれほど大きな存在だったのか、ということを再確認する意味もあったのかもしれない。
で、肝心の映画の中身はどうだったのかって? それは表向きはディズニーのアニメ技術のすごさを見せつけられはするが、中身は「ジャングル大帝」の比ではない、という程度の皮肉は言いたくなる。
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