『ゴジラVSビオランテ』(89)(1989.12.7.読売ホール)
開口一番、何と言ったらいいのか…。5年ぶりのゴジラの復活は、ゴジラの映画を見ながら育った者としてはうれしい限り。監督もゴジラ世代の大森一樹に若返ったことだし、よりわれわれの願望に近い新しいゴジラが…という期待があったのだが、またしても肩透かしを食らった感じがした。
何より5年前の『ゴジラ』(84)を見た際にも感じた、ゴジラの居場所のなさや存在感の薄さが増していたのである。例えば、現実のテクノロジーが「007」の新兵器を追い越してしまって面白さが半減したように、ゴジラが姿を現しても、周りの建物がゴジラより高くて大きいのでは、恐怖や緊張感は薄くなる。
加えて、いろいろなしがらみがあったのだろうが、映画自体もオリジナル『ゴジラ』(54)に近いシリアス・ゴジラなのか、『キングコング対ゴジラ』(62)のようなエンターテインメント・ゴジラなのかがはっきりせず、中途半端な印象を受けた。
おまけに、ゴジラの細胞から生まれたビオランテの存在感がゴジラ以上に薄い。もっとどぎつく『エイリアン』(79)や『ザ・フライ』(86)のように行き着くところまでいってほしかった。しかも、ラストの昇天するビオランテに沢口靖子のアップをオーバーラップさせたものだから、場内大爆笑。
試写の前にあいさつに立った大森一樹監督が「あまりたたき過ぎてほこりを出さないように…」と言っていたが、これではねえ…。という訳で、大森一樹もゴジラとの闘いに敗れたとなると、次は大林宣彦か、あるいは奇をてらって森田芳光か伊丹十三あたりに撮ってもらいますか。何しろゴジラは黒澤明と並んで、日本映画が海外に誇れる数少ないスターなのだから、もっと大事にしてやってくださいよ。とはいえ、こんな感じでは次回作はいつになることやら。ゴジラよ何処へ。
【今の一言】その後、某映画祭で大森監督と知己を得たが、ご本人にはこの映画の話はできなかった。
開口一番、何と言ったらいいのか…。5年ぶりのゴジラの復活は、ゴジラの映画を見ながら育った者としてはうれしい限り。監督もゴジラ世代の大森一樹に若返ったことだし、よりわれわれの願望に近い新しいゴジラが…という期待があったのだが、またしても肩透かしを食らった感じがした。
何より5年前の『ゴジラ』(84)を見た際にも感じた、ゴジラの居場所のなさや存在感の薄さが増していたのである。例えば、現実のテクノロジーが「007」の新兵器を追い越してしまって面白さが半減したように、ゴジラが姿を現しても、周りの建物がゴジラより高くて大きいのでは、恐怖や緊張感は薄くなる。
加えて、いろいろなしがらみがあったのだろうが、映画自体もオリジナル『ゴジラ』(54)に近いシリアス・ゴジラなのか、『キングコング対ゴジラ』(62)のようなエンターテインメント・ゴジラなのかがはっきりせず、中途半端な印象を受けた。
おまけに、ゴジラの細胞から生まれたビオランテの存在感がゴジラ以上に薄い。もっとどぎつく『エイリアン』(79)や『ザ・フライ』(86)のように行き着くところまでいってほしかった。しかも、ラストの昇天するビオランテに沢口靖子のアップをオーバーラップさせたものだから、場内大爆笑。
試写の前にあいさつに立った大森一樹監督が「あまりたたき過ぎてほこりを出さないように…」と言っていたが、これではねえ…。という訳で、大森一樹もゴジラとの闘いに敗れたとなると、次は大林宣彦か、あるいは奇をてらって森田芳光か伊丹十三あたりに撮ってもらいますか。何しろゴジラは黒澤明と並んで、日本映画が海外に誇れる数少ないスターなのだから、もっと大事にしてやってくださいよ。とはいえ、こんな感じでは次回作はいつになることやら。ゴジラよ何処へ。
【今の一言】その後、某映画祭で大森監督と知己を得たが、ご本人にはこの映画の話はできなかった。
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