田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『ミシシッピー・バーニング』アラン・パーカー

2020-08-03 07:24:28 | 映画いろいろ

『ミシシッピー・バーニング』(88)(1989.4.21.丸の内ピカデリー2)

  

 1964年、ミシシッピー州の小さな町で3人の公民権運動家が行方不明となる。人種差別がはびこる南部の町で、司法省から来たウォード(ウィレム・デフォー)とたたき上げのアンダーソン(ジーン・ハックマン)という、対照的なFBI捜査官が捜査に乗り出す。だが、彼らが事件の核心に迫る中、焼き討ち、リンチ、殺人が続発する。

 映画を見終わった後、何とも言えないやるせなさを感じながら、それとは逆に、皮肉にもエンドタイトルの奥に、去年のソウルオリンピックで星条旗を持ってウイニングランをしたカール・ルイスやフローレンス・ジョイナー、あるいは歌い踊るマイケル・ジャクソンの姿が浮かんできた。

 この映画が描いた事件は、すでに20年以上も前の出来事である。ところが、この映画は何一つ解決策を示していないし、結局、暴力には暴力で対抗するしかないのか、という疑問も投げ掛けてくる。だから、少しも古くささは感じない。

 ところが、今のアメリカには、うわべでは先にも触れたブラックパワーの風が吹いているように見えるから、アメリカが抱える人種問題の根深さを、第三者であるわれわれ日本人はどうしても忘れがちになる。

 その点で、アメリカ映画の良さは、こうした過去の罪や現代にも通じる問題を、きちんと掘り起こして見せる姿勢にあると言えるだろう。ベトナム戦争しかり、この映画のような人種問題しかり、そして『レインマン』(88)のような社会問題しかりである。そうした諸問題を、映画の力を借りて告発する自己浄化作用が、アメリカのある種の映画には確かにあるのだ。

 さらに、これだけ重く暗いテーマを扱いながら、これまた『レインマン』同様、ちゃんと娯楽映画になっているところがアメリカ映画の真骨頂。それ故、描かれる事件の衝撃度や問題点をきちんと理解することができるのだ。

 監督のアラン・パーカーは、もともと、イギリス出身でありながら、あまりイギリスっぽさを感じさせない人だったが、アメリカの人種問題をこれだけ見事に描けるのだから、いよいよ本格的に“アメリカ映画の監督”として認知してもいいような気がしてきた。

 さらに、久しぶりに本領を発揮したジーン・ハックマン、芸達者なウィレム・デフォー、驚くべき嫌らしさを持って悪役を演じたブラッド・ドゥーリフ、フランシス・マクドーマンドといった演技陣が見事なコントラストを示した。トレバー・ジョーンズの黒人霊歌をベースにした音楽も効果的だった。改めて、アメリカ映画の底力にはたいしたものがあると感じさせられた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ポセイドン・アドベンチャ... | トップ | 『刑事ジョン・ブック/目撃者』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画いろいろ」カテゴリの最新記事