爪の先まで神経細やか

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流求と覚醒の街角(30)風邪

2013年07月26日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(30)風邪

 奈美は風邪をひいている。いまはベッドに横たわっている。額には汗をかき、濡れた髪がそこに貼り付いていた。ぼくはタオルを持ち出し、そっと拭いた。せっかくぐっすりと眠っているのに起こすこともなかった。

 眠るまでは随分としんどそうだった。うなったり寝返りをうったりを繰り返して、やっと解放される。眠ったあとに爽快さが直ぐにやって来るとも思えなかったが、身体は楽になるだろう。できるなら、ぼくは立場をかわってあげたかった。しかし、不可能なのだ。タオルで額を拭くことぐらいしかできない。また、それは彼女に知れ渡ってはいけないのだ。未知なる世界のできごと。おぼろげな記憶。

 ぼくは部屋からでてキッチンに座る。急に具合が悪くなったので、冷蔵庫にはその日に用意したものがそのまま残っていた。ぼくは缶ビールを取出し、ラップがかかっているサラダの鉢もテーブルに並べた。それをつまみにしてひとりで空腹を満たした。やはり、どこかで味気なさと戦っている。

 いまの奈美にとって、ぼくの存在などまったくないことだろう。反対にぼくは心配をしている。ぼくは普段の元気で陽気な彼女のことを知っている。それが奪われた瞬間のために嘆いていた。だが、これはまったくの終わりではないことも薄々は知っているのだ。数日後には元通りになる。免疫をいくらか加えた彼女になって。

 となりからうめき声のようなものが聞こえる。ぼくは薄めにドアを開け、その様子をうかがう。室内は暗いため、彼女の表情の細々とした部分はよく分からない。彼女の身体から発する熱気のようなものが、部屋のなかで澱んでいるようだった。汗をかき、体温が下がる。ぼくはまたドアを閉めた。今日、いつも通りだったら彼女と話せたことを具体的に想像しようとした。彼女には感激したことがあったかもしれない。逆に腹を立てたこともあるのだろう。それを彼女の口から聞きたかった。でも、いまはおあずけだ。

 健康というのは空腹と、その解消と眠たさだけのような気がしていた。ぼくは小さな音でラジオをかけた。明日の天気の情報がながされる。みな、明日に期待する。きょうは、もう直ぐなくなるのだ。ぼくは時計を見上げる。正確な時刻がわかる。あと、数十分で今日も終わりだ。ぼくは、どこで眠ろうか考えていた。床に寝そべり、クッションでも枕代わりにして眠る。健康であれば、ほとんどのことは耐えられるような気持ちだった。ぼくは食器を静かに洗い、シャワーを借りた。奈美の化粧水を意味もなく顔にすりつけ、鏡をのぞいた。自分のこの顔を思い出の一部として覚えてくれているひとが世の中にどれぐらいいるのかと想像する。あるひとは、悲しみの感情と直結させるかも知れず、ある場合には憎しみを呼び起こすのかもしれない。さらに多くは、忘れていたとか、懐かしいとか、大人になったとか思うのだろう。実際はどうか分からない。顔は覚えてくれていても、名前は失念ということもあり得た。それも仕方がない。ぼくも、そういうことをするのかもしれなかった。

 ぼくはドアを開けて、予定通りクッションを探した。適当な場所に置くと、ぼくは奈美のパジャマを触った。それはまだ濡れてはいなかった。着替えも必要ないのだろう。そっとした積りであったが、奈美は目を開けた。

「そこで、寝るの?」床のクッションを目にして、彼女は訊ねた。ぼくは、ただ頷いただけだった。彼女はいくらか済まなそうな表情をしたが、途端にそれも消え、また夢の世界の住人に戻った。

 ぼくは床の固さなどかまわずにぐっすりと眠ったようだった。目を覚ますとカーテンの向こうは晴れていることが分かるほどだった。昨日の天気予報は間違えようもなかったのだ。ぼくは上半身を起こす。いくらか身体はこわばっていたが数回手足を伸ばすとそれも自然と消えた。

 ぼくは横を見る。奈美も目を覚ましたようだった。
「一日、そこで?」
「うん。でも、目も覚まさなかった。どう、直った?」
「多分」
「熱、計る?」
「うん」ぼくは体温計をとり数字を確認してから彼女の脇に入れた。今度はパジャマ自体に湿り気があった。
「着替えないとね」
「着替えないと、風邪引く」彼女は笑った。「もう引いてるけど」

 ぼくはカーテンをすこし開けた。数分、外を見ていた。いつか、奈美が言った老夫婦がベンチに座っている後姿が見えた。ぼくらの将来の姿かもしれない。

「ベンチに座っているね。ほんとにいたんだ」
「信じてなかったの?」
「疑っているわけじゃない。ただの確認のことば。どう?」
「見て」彼女は脇から体温計を取り、自分で見ることもせずぼくに渡した。ぼくは彼女のいつもの体温を知らなかった。接触を通してぬくもりや熱は感じたことはあっても温度としての数字は知らないのだ。
「36、2」ぼくはそれが彼女にとって高いのか低いのか区別のつかないまま読み上げた。
「じゃあ、いつも通りだ。平温」
「気分は?」
「快適に近い」
「直ぐになおったね。ジュースでも飲む?」

「うん」汗でくっついた髪を彼女のパジャマの袖はぬぐった。ぼくは彼女の身体をはじめて求めたことを覚えていた。それはどうやっても懐かしいという段階には行きそうにもなかった。その新鮮さを更新するのをためらわず、また、いつか彼女の元気になった姿をぼくのこころは刻むのだろう。
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