流求と覚醒の街角(27)電球
奈美の家にいる。電気のスイッチに触れてもいないのに、急に暗くなった。天井を見上げると、いままで照明器具の影響が及んでいたはずのところは真っ暗だった。
「停電?」
「違うだろう、テレビもついているし」その他、さまざまな時刻の点りが部屋中にあることを知る。「替えは?」
「ないよ。ここに住んでから、はじめてだから、こういうの。どういう形なんだろう」彼女の腕は想像につられて円を作った。「見てくれる?」
ぼくは椅子をもってきて、照明器具のカバーを外した。奈美はそれを下で受け取る。
「汚いね。雑巾あったかな」
ぼくは数字の組み合わせをメモして、出掛ける。
「電気屋は開いてないけど、コンビ二でも置いてあるだろう。買ってくるよ」
「ありがとう」
ぼくは靴をつっかけ歩いている。いままで、普通に点っている間は気にもしない。それが停まったときに、はじめて存在があらわになる。だが、新しいものに取り換えさえすれば済むことも多くある。この場合も。もちろん、済まないこともたくさんある。喪失というものが、本質的にどういうものか分からずにいたころの自分を思い出す。そして、店の前に来てもぼくは敢えてその状態を取り戻そうとしていた。
蛍光灯の品数は少なかったけど、望んでいるものはきちんと置いてあった。予備はいらないだろう。そもそも、別の部屋はどういうものを使っているのかも分からない。トイレは? 風呂場は? 考えてみれば、自分のアパートですら具体的な形状を思い出せないでいた。
ぼくはレジで代金を支払い、店を出る。どこの町でも夜と自分の活力をもてあます若者が店の前にいた。彼らのひとりはスクーターのエンジン音を無駄に響かせていた。ヘルメットの紐を首にかけ、赤っぽい色の頭髪を外灯のしたにさらしていた。奈美は、ここでひとりで買い物にくるのだろう、と不安な気持ちを抱きながら思い出す。
ぼくはまた元の道を歩いている。数字の書いてあるメモをレシートといっしょにゴミ箱に捨ててしまった。明日になれば、もう同じものを覚えているかも分からない。蛍光灯など、似たり寄ったりなのだ。そこに、個性などそうはない。女性というグループの数人。奈美と前の女性。彼女たちは別の女性だ。ぼくは歩きながら、前の女性の顔を思い出そうとしていた。だが、段々とその通常だと思っていた過程が困難なものに移ってきたことに驚いていた。いつか、まったく思い出せなくなる日だって来るのだ。そう遠くないうちに。その状態もやり切れないものだった。だが、いくら思い出せなくなったとしても、ぼくには痛みだけは残ってほしいと思っている。それを手放す勇気も決心もなかった。だが、未来のことはなにも分からない。ただ、痛みだけがぼくが彼女を愛した確かな証拠になり得るのだ。陪審員は信じないにしても。
部屋に戻り、ぼくは椅子の上にまた乗った。何度か金属的なものがこすれ合う音がして、ぴったりとはまった。それから、きれいに拭かれたカバーをはめた。
「点灯!」
と、奈美は言った。まるでオリンピックの聖火を見守るように。
「点いた」
「明るくなった。ねえ、そんな顔だったの?」奈美はふざけたような声を出して、椅子から降りるぼくの顔をのぞきこんだ。
「去年も来年もずっと、おそらくこんな顔だよ」
古くなった蛍光灯を新品のものが入っていた箱に入れる。あとはゴミに出すか、正当な廃棄場所にもっていけば終わりだ。その後、回収されてからどういう経路をたどるのかは知らない。痛みも喪失もない。また、日常が戻る。スイッチを押せば、電気がつく暮らしに。
「コンビ二の前に、あまり性質が良くなさそうな子たちがいたね」
「そうでもないでしょう。偏見に過ぎない?」
「そうかね」
「大事に思ってくれてる?」
「それは、もう」
「そうなんだ。でも、ひとりで明かりがないところで待っているのも淋しいものだった。いっしょに買いに行けば良かったなって、ちょっと後悔したぐらい」
「こんな短い時間なのに」
「でも、待つってそういうことでしょう」
「待たせる方がいい?」
「どっちかなら、そう」
ぼくはトイレに入る。自分の家の殺風景なそれとは違い、手がかかっている場所だった。何枚か絵葉書が貼ってある。多分、スイスかどこかの緑の景色。ぼくは上を見る。やはり、電球がある。日に何度かしか点さないものだけど、重要なものである。一日のうちに数回しか使わないものもたくさんある。例えば、歯ブラシ。数日に一度のものもある。洗濯機や掃除機。月に一度はどういうものが該当するのだろう。年に一度は何があてはまるのだろう。
貴重なものが段々と価値を目減りさせていく。真新しいスーツは、いささかくたびれてくる。しかし、失ったがゆえに価値を増すものもあるのだろう。若さや情熱。新鮮な気分。トライしてみようとなにかを決断したときの気持ち。コンビ二の前の子たちも何かに挑もうとするのだろうか。それを評価してくれる社会や大人の目はあるのだろうか。
「シャワーを浴びるね」と言って奈美は消えた。そこにも電球がある。真っ暗ななかで自分の汚れを洗い流すのも不安なものだろう。もう子ども時代のような実際の汚れを目にすることはなくなる。服もどろどろになるほどは汚さない。爪は砂遊びのためのものではなく、色彩を目立たせるために使う箇所なのだ。ぼくはいたずらで一瞬だけ風呂場の電気を消す。なかから悲鳴のような声が聞こえ、軽くぼくをののしる声がつづいた。
奈美の家にいる。電気のスイッチに触れてもいないのに、急に暗くなった。天井を見上げると、いままで照明器具の影響が及んでいたはずのところは真っ暗だった。
「停電?」
「違うだろう、テレビもついているし」その他、さまざまな時刻の点りが部屋中にあることを知る。「替えは?」
「ないよ。ここに住んでから、はじめてだから、こういうの。どういう形なんだろう」彼女の腕は想像につられて円を作った。「見てくれる?」
ぼくは椅子をもってきて、照明器具のカバーを外した。奈美はそれを下で受け取る。
「汚いね。雑巾あったかな」
ぼくは数字の組み合わせをメモして、出掛ける。
「電気屋は開いてないけど、コンビ二でも置いてあるだろう。買ってくるよ」
「ありがとう」
ぼくは靴をつっかけ歩いている。いままで、普通に点っている間は気にもしない。それが停まったときに、はじめて存在があらわになる。だが、新しいものに取り換えさえすれば済むことも多くある。この場合も。もちろん、済まないこともたくさんある。喪失というものが、本質的にどういうものか分からずにいたころの自分を思い出す。そして、店の前に来てもぼくは敢えてその状態を取り戻そうとしていた。
蛍光灯の品数は少なかったけど、望んでいるものはきちんと置いてあった。予備はいらないだろう。そもそも、別の部屋はどういうものを使っているのかも分からない。トイレは? 風呂場は? 考えてみれば、自分のアパートですら具体的な形状を思い出せないでいた。
ぼくはレジで代金を支払い、店を出る。どこの町でも夜と自分の活力をもてあます若者が店の前にいた。彼らのひとりはスクーターのエンジン音を無駄に響かせていた。ヘルメットの紐を首にかけ、赤っぽい色の頭髪を外灯のしたにさらしていた。奈美は、ここでひとりで買い物にくるのだろう、と不安な気持ちを抱きながら思い出す。
ぼくはまた元の道を歩いている。数字の書いてあるメモをレシートといっしょにゴミ箱に捨ててしまった。明日になれば、もう同じものを覚えているかも分からない。蛍光灯など、似たり寄ったりなのだ。そこに、個性などそうはない。女性というグループの数人。奈美と前の女性。彼女たちは別の女性だ。ぼくは歩きながら、前の女性の顔を思い出そうとしていた。だが、段々とその通常だと思っていた過程が困難なものに移ってきたことに驚いていた。いつか、まったく思い出せなくなる日だって来るのだ。そう遠くないうちに。その状態もやり切れないものだった。だが、いくら思い出せなくなったとしても、ぼくには痛みだけは残ってほしいと思っている。それを手放す勇気も決心もなかった。だが、未来のことはなにも分からない。ただ、痛みだけがぼくが彼女を愛した確かな証拠になり得るのだ。陪審員は信じないにしても。
部屋に戻り、ぼくは椅子の上にまた乗った。何度か金属的なものがこすれ合う音がして、ぴったりとはまった。それから、きれいに拭かれたカバーをはめた。
「点灯!」
と、奈美は言った。まるでオリンピックの聖火を見守るように。
「点いた」
「明るくなった。ねえ、そんな顔だったの?」奈美はふざけたような声を出して、椅子から降りるぼくの顔をのぞきこんだ。
「去年も来年もずっと、おそらくこんな顔だよ」
古くなった蛍光灯を新品のものが入っていた箱に入れる。あとはゴミに出すか、正当な廃棄場所にもっていけば終わりだ。その後、回収されてからどういう経路をたどるのかは知らない。痛みも喪失もない。また、日常が戻る。スイッチを押せば、電気がつく暮らしに。
「コンビ二の前に、あまり性質が良くなさそうな子たちがいたね」
「そうでもないでしょう。偏見に過ぎない?」
「そうかね」
「大事に思ってくれてる?」
「それは、もう」
「そうなんだ。でも、ひとりで明かりがないところで待っているのも淋しいものだった。いっしょに買いに行けば良かったなって、ちょっと後悔したぐらい」
「こんな短い時間なのに」
「でも、待つってそういうことでしょう」
「待たせる方がいい?」
「どっちかなら、そう」
ぼくはトイレに入る。自分の家の殺風景なそれとは違い、手がかかっている場所だった。何枚か絵葉書が貼ってある。多分、スイスかどこかの緑の景色。ぼくは上を見る。やはり、電球がある。日に何度かしか点さないものだけど、重要なものである。一日のうちに数回しか使わないものもたくさんある。例えば、歯ブラシ。数日に一度のものもある。洗濯機や掃除機。月に一度はどういうものが該当するのだろう。年に一度は何があてはまるのだろう。
貴重なものが段々と価値を目減りさせていく。真新しいスーツは、いささかくたびれてくる。しかし、失ったがゆえに価値を増すものもあるのだろう。若さや情熱。新鮮な気分。トライしてみようとなにかを決断したときの気持ち。コンビ二の前の子たちも何かに挑もうとするのだろうか。それを評価してくれる社会や大人の目はあるのだろうか。
「シャワーを浴びるね」と言って奈美は消えた。そこにも電球がある。真っ暗ななかで自分の汚れを洗い流すのも不安なものだろう。もう子ども時代のような実際の汚れを目にすることはなくなる。服もどろどろになるほどは汚さない。爪は砂遊びのためのものではなく、色彩を目立たせるために使う箇所なのだ。ぼくはいたずらで一瞬だけ風呂場の電気を消す。なかから悲鳴のような声が聞こえ、軽くぼくをののしる声がつづいた。