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流求と覚醒の街角(26)文房具

2013年07月19日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(26)文房具

 奈美は手紙を書いている。お世話になった方と継続的に手紙をやり取りしているそうだ。儀式のように、その為の専用のペンがあった。酷使されなくても時間の経過とともにものは劣化していく。彼女は頑なにそのペンではないと駄目だと言った。だが、どこにでもあって簡単に手に入るというものではなく、一部の場所で、一部の愛好家のために売られているらしい。ぼくも、奈美の手元にあるのを見るまで、その存在を知らなかった。野球選手が愛用のバットの握り部分で成績の好悪が分かれてしまうように、彼女の気分もそれでないとどうやら乗らないらしかった。

 なぜなら、そういう交流をはじめようとしたときに、ふたりでそれをセットで買ったのだ。相手がいまだにそれを使っていることは判然としないが、手紙のインクの筆跡やにじみ具合で、多分、彼女もまだ使用しつづけていることは予想がつくと言った。だから、自分が先にやめる訳にはいかない。まあ、理屈としては、また感情を納得させるためだけだとしても当然のことなのだろう。

「どんなことを、いつも、書いてるの?」

 普通の好奇心の持ち主として、ぼくはそう訊く。彼女が夢中になって、ぼくのことを忘れて書いたり読んだりするぐらいだから、とても大切なことが認められているのだろう。だが、彼女らが会うことはなく、ぼくは写真を見てもいなかった。もちろん、無許可で手紙を読むことなどもしない。秘密は、きちんと見守る側の意志が働いてこそ、秘密としての立場が守られ、貴くなっていくものだろう。勝手な解釈でありながらも。

「普通は、言わないでしょう?」
「言わないね」ぼくは自分が秘密にしたいことを考えるも、まったく思い浮かばなかった。「でも、会いたくならないの? それが、いちばん手っ取り早い」
「会えないところにいるんだよね」その言葉に反応したぼくのきょとんとした顔を認めてから、「嘘だけどね」と付け加えた。「会って話したら、恥ずかしいようなことを、もうお互いはたくさん知ってしまっているし、会話としてリズムが合うのかももう思い出せない」ふと、さびしい様子を見せて、奈美は答えた。
 ぼくらは文房具屋に向かっている。

「例えば、ひとりでお留守番をして、お母さん、少し遅くなるけど、このおやつ食べてて待っててね、というメモがあるでしょう」奈美はその情景を思い出したかのように一瞬だけ目をつぶって言った。
「あるの?」
「あったの。あれが、ひとにできる、家族にできる最高のプレゼントじゃないかなと、最近、思っている」
「奈美は字もきれいだし」
「きれいじゃないよ」
「もし、外回りでもして疲れて、奈美みたいな字で、オフィスの机に、お疲れさま、みたいなメモがのこってたら男性ならイチコロだよ」
「なんだ、それじゃ、手紙信奉者じゃない」味方が増えたことを喜んだような口調だった。「そうかな。じゃあ、今度やってみる。でも、相手が浮かばないけどな」

 ぼくらはそれからしばらくして店内に入った。ノートがあり、もちらん一対となるペンがある。しゃれたデザインの小型の照明器具もある。机の端にあれが置いてあれば、ずっとそこに座っていたくなるようなものだった。さらには、トランプなどもあった。そして、カレンダーもたくさんの種類が置いてあった。この時期から、あらたにカレンダーなど揃えるひともいないだろうにと首を傾げたくなるほどのたくさんのものがあった。

 ぼくはぶらぶらと興味をひかれるままに動いていたが、反対に奈美は一直線に目的の売り場に向かった。ぼくは、少し経ってからその場所に向かった。ショーケースのなかには、これまた多くのペンや万年筆が横たわっている。それはもう道具ではなく、装飾品の一部なのだというものもあった。指紋をつけるのも惜しいぐらいなたたずまいで。

 奈美の背中が見える。前には長身の男性店員が奈美を見下ろすように立っていた。彼はいつ文房具を売る機会を見つけたのだろう。それとも、老舗というのは親の役目を譲り受けることを総体的に指しているのだろうか。それにしては、男性店員もそれなりにいた。

「どうですか、滑らかでしょう?」近くによると、彼の声が聞こえる。低く抑えられた声。きちんと抑制された声質と感情。驚きはないが、満足感は伝えられる音。
「そうですね。いままで、大事にしていたものと同じ感触」
「どれぐらい、お使いだったんですか?」
「高校を卒業したあとだから・・・」それだけで通じると思ったのか奈美はそれ以上言わなかった。
「もっと、もつと思うんですけどね」店員は少し不服らしかった。自分の分身があまりにも早く寿命を全うすることについて。
「思い出の品だから、丁寧につかっていたのに」そこで、奈美は振り返った。「やっぱり、あったよ」

「じゃあ、これからも書けるね」ぼくは学生時代に習ったことわざを思い出していた。筆を選ばないということを。前の女性の母は画家だった。だから、彼女の家にはたくさんの用途に合わせて筆が並べられていた。何でもいいというのは素人の考えに過ぎないのだろうか。相性もある。馴染んだものを失ったさびしさがある。奈美の母は出掛ける前にささっとメモをテーブルの上にでも置いたのだろう。そのささいな行為が優しさの源だった。ここにあなたがいて、これをあなたは読むという確信がともなって。奈美は手近にあるメモ帳に文字を書いた。いや、それは文字ではない。ただの回転の軌跡。それでも、ぼくは奈美の口かも漏れる声や湿度が加わった音でぼくに話しかけてほしかった。それ以外は、具体的に幸福を持ち込むのかどうかも分からなかった。