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流求と覚醒の街角(29)水門

2013年07月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(29)水門

 そこには水門があった。前日までのおびただしい雨により、水かさはいつもより増していた。土手にもところどころに水たまりが残っており、いま立っているところの芝生もぬかるんでいた。その為、水門は開かれ勢いよく放水されていた。ぼくはその姿をはじめて見る。のどかさしか感じられない場所は本来の役目を隠していたのだ。

 つくづく考えれば不思議なものだった。門の開閉によって水量を調整する。与えるものや得られるものを、こちら側で判断して制御する。町に沿った大きな川であれば必要なものであり、力を最大限、発揮すれば命も救われることがあるだろう。だが、通常はのんびりとしているものだ。普段、散歩しているひとたちも実際の役目に気をとめることなく、偉容な姿として捉えているだけなのだ。

 奈美は横でその姿を無心に見ていた。そこは、彼女の実家の近くだった。ぼくは遠回りしてでもそこを歩くのが好きだった。景色も良かったが、奈美の両親と会う前や、会ったあとの開放感にその景色が欠かせないものとして必要だったのだろう。今日は会ったあとだった。昨日までの大雨による恩恵の風景に見惚れていた。

「お父さんたちに会うの、なれた?」
「それほどには」

 ぼくは奈美と親しくなることだけを望んだのだ。当初は。しかし、関係性の流れで彼女に付随する世界にも当然のこと足を踏み入れることになる。
「うまく、やってるけどね」

 そうでもなかった。奈美と彼女の母親は足りないものがあると言って、外に買い物に行ってしまった。数十分だけだったが、ぼくは奈美の父親とふたりきりになる。奈美を媒介にしなければ会話もなく、接点もなかった。そもそも、他人であった。それでは、親しみをこめた知人と他人との境界線は、どこにあるのだろう。その境目をなにが決壊させてくれるのだろう。どこかでふたつの異なった魂は合流して、ひとつになったという錯覚をつかめるまでになるのだろうか。

「奈美がいなくなった途端に、無口なふたりになった」
「ふたりとも、それほど、無口でもないのにね。ごめん」
「謝ることなんかないよ。ただの事実だから」
「緊張と汗をともなった事実か」

 それでも、門から出る水は徐々に少なくなった。奈美の実家で昼食をとり、解放された午後だった。ぼくらは関係性を深めるために親を利用としていたわけでもない。ただ、奈美がたまには週末に両親と会いたい、といったので計画もなく、「ぼくも行こうか?」と訊いただけだった。奈美はどっちでも良さそうだった。少なくともぼくにはそう思えた。

 そう言った昨日の夕方は大雨だった。バケツを引っくり返すという形容詞を数段、越えるような雨足だった。4tトラック数台分を裏返しにしたような雨量だ。閉め切った窓からも雨粒が叩きつける音が聞こえた。しかし、今朝は一転して晴れていた。なにも、ぼくらは決めることができないという不安と、また大局では誰かが制御しているという安心感も同時にあった。あの水門のように。

「これから、発展するんだろうかね、ぼくと」
「お父さん?」奈美は水の流れから目を逸らす。「別にお父さんと結婚するわけでもないしね。いま、結婚って、わたし言った?」
「言った」

「言葉の綾だよ。そう思っている訳じゃない。ごめんね、そう思っていないわけでもない。なんか、こんがらがった」奈美はそれで、笑う。ぼくらの仲ではじめてその二文字が使われた最初の機会となった。それは親しくなることのゴールとして使われた言葉であり、契約とか誓約がともなうことの象徴ではなかった。

 ぼくは言い訳を探している。どこかで、ぼくにとって最良の女性は手放したなかにいたのだという懸念が消えなかった。その心配と焦燥を奈美に向けるのは、どうやってもフェアではなかったので、ぼくは奈美の父を悪役にするという誘惑をもちこんでいるのだろう。ぼくだって、本気をだせばうまくやれるはずだった。もう一歩の努力を敢えて怠った。だが、むかしの思いが大量にほとばしる訳でもない。ときおり、思い出したように屋根のひさしから頭のてっぺんに水滴が落ちるだけだ。地肌に触れる。その驚きと戸惑いを、ぼくは大げさに受け止めようと努力していた。

「歩こうか?」

 ぼくらはどこに行くという予定もなかった。ただ、駅には向かっていた。昨日は奈美の家にいた。今日は、ぼくの家の近くに行くかもしれない。また、全然別のところに行くのかもしれない。ぼくはなんとなく疲れていた。その所為か電車に乗ると居眠りをしてしまった。奈美の身体にぼくは重心をのせた。他人ではないというのは結局のところ、こういうことや態度を言うのだろう。ささいな仕草に愛情の灯りを感じ、ささいな仕草に愛情の終焉を感じる。前の女性のそのようなあらわれを、ぼくはどこで感じてしまったのだろう。不思議なことにあんなにも重要だったことをいまのぼくは思い出せないでいた。しかし、寄りかかっているのをぼくはその女性だと勘違いしていた。名前を呼び間違えるようなことはない。だが、それは容疑としては小さなものでもなかった。しかし、ぼくは疑われずにいる。もしかしたら、奈美の父はその裏面を感じ取っているのかもしれない。自分の娘への愛情を幾分すくなく示す恋人。ぼくは目を覚ます。散々、ほかの女性のことを考えておきながら、目がさめていちばんはじめに見たいのは奈美の顔であり、姿だった。静かに流れる川の土手も、ぼくは今後も奈美といっしょに歩くのだろう。大雨が降っても、日照りがつづいたとしても。

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