流求と覚醒の街角(21)捕獲
ぼくが目を覚ますと、もう奈美はいなかった。そこが自分の家ではないことをぼくは熟睡しながらも、はっきりと理解していた。そこに奈美と来たことも、くっきりと分かっていた。突然、彼女が消えるということもないので、どこかに散歩に行くとか、こまごまとした、例えば洗面道具とか水とかを買いに出かけたのだろうとぼくはまだまだ眠い目をこすりながらも考えていた。
所定の位置と勝手に決めた台の上には鍵がなかった。だから、ぼくがシャワーを浴びても彼女は入ってこられるだろうと安心して、ぼくは服を脱いだ。大きな鏡は自分が10代でも20代の前半でもないことをありのままに告げている。かといって悪いことでもなくこの状態を維持すればいいのだ、とぼくはひとごとのようにぼんやりと小さな決意をしていた。
実際は違うのだが、シャワーの穴からも潮のにおいがするような印象があった。海沿いの町。大きなホテルでもなく、開発業者が回収を見込んで手をかけたリゾート地でもない。今後をどのように展開するかも視野にいれていないような場所だった。その朝にぼくはひとりだった。
タオルを身体に巻きつけ、部屋にもどってテレビをつけた。ローカルなニュースは今日の天気を知らせてくれる。赤い太陽のマークがこれからの日程の快適さの分量のすべてを教えてくれる。すると、鍵があく音がした。
「起きたんだ」彼女はテーブルの上に鍵を置いた。もう片方の手は、後ろに隠されている。
「うん。どこ行ってたの?」
「昨日の河」
「なんかあった?」
「カニを見つけたかったから。何匹も、いたよ」奈美は後ろの手をもとに戻してビニール袋を前方に差し出した。そこには不思議な色の甲殻類がいた。彼女は薄い皿にも似たお盆のようなものをお茶のセットの下から探し、そこに水ごとカニを入れた。それが済むとベランダの窓を開け、そこに容器ごと置いた。
「やっぱり、いたんだ」
「なんか、信じてなかったみたいだから。違うかな、わたしも見たこと、信じていなかったのかも」彼女は屈んでじっとその姿を見ている。「可哀そうだから、あとで戻すけど。ちょっとだけね。ちょっとだけ、わたしにつかまる」
「ちょっとだけ、つかまる。奈美も、ぼくに」
「わたしは、ずっとだと思うけどね・・・」と、奈美は小さな声で言った。大きな鐘を打ち叩いて表明することもしないが、真実の響きがそこにはあった。ぼくはヨーロッパの国にいたときの前の女性とのひとときを思い出していた。彼女とぼくの間には揺るぎのない永続性が宿っていると信じており、あの遠くまで聞こえる鐘の音がそのすべてを表していた。しかし、絶対など存在しないのだといまのぼくは知っている。それは約束を放棄するという問題でもなかった。心変わりという簡単な、かつ単純な表現でもない。カニはこの浅い入れ物をいつか越えるのかもしれない。反対に、いくら努力しても縁はすべり、何本もの足があっても乗り越えることは不可能なのかもしれない。だが、誰も確かな答えなどもっていないのだ。少なくともこの今朝のひとときは。
「朝ごはんの時間も終わっちゃうよ」いつまでも、カニを見続けている奈美の背中にぼくはそう言葉をかけた。
「そうだね。干物とかシンプルな朝の食事かな」
「シンプルでも、都会で暮らしているぼくにとっては、とても贅沢なひとときだよ」
「いつか、毎日、食べさせてあげるようになるよ」
奈美はそう言ったが、ぼくはそれを毎日望んでいる訳ではないのかもしれない。奈美との関係性ではなく、慌しい状況で食事など軽んじてしまう傾向と誘惑が都会には多いという問題としてであった。
ぼくらは向かい合って食事をした。人間の衝動としての愛情が、こういう日常の営みの繰り返しによって磨耗され軽減されていく傾向や失跡があった。ぼくらは物語のなかの登場人物としての優雅なお姫様と王子様ではいられないのだ。時間がくれば腹が減り、ストレスが増えれば自分にも近くにいる相手にも意味もなくあたるのだ。その全てを含めて生きるということかもしれなかった。
コーヒーを最後に飲み、ぼくらの食事は終わった。あとは荷物をまとめチェック・アウトするだけだ。
部屋に戻り、奈美は化粧をはじめた。ぼくはまたテレビをつける。天気予報に変わりはない。この数分では物事の変化にはすべてが足りないのだ。ぼくは、靴下を履き、靴に足を入れた。靴のなかのどこかで、布を通してだか、直かにだが区別のつかないものだったが、海岸特有の微細な砂が入りこんで取り除くことのできない感触があった。
「用意できたよ。ベランダのあの子も、放してあげないと」
ぼくは両手に荷物を持ち、奈美はまたビニールにカニを入れた。
「まだ、元気なの?」
「元気そうだよ。もとのところがいいんだよね」
「ちょっとの間つかまえて、また手放すんだな」ぼくは意味もなくそう言ったが、やはり、そこにはたくさんの意味も込められているような気がした。だが、ずっとこの小さな場所にいれば窒息するだけなのだろう。もっと似合いの場所がある。前の女性もそういう類いの場所を見つけたのだろう。そして、ぼくはこの奈美との関係を居心地のよいものと判断すること自体に疑いの破片すらも挟むことはなかった。負け惜しみにも似た気持ちもかすかにだがあった。
ぼくが目を覚ますと、もう奈美はいなかった。そこが自分の家ではないことをぼくは熟睡しながらも、はっきりと理解していた。そこに奈美と来たことも、くっきりと分かっていた。突然、彼女が消えるということもないので、どこかに散歩に行くとか、こまごまとした、例えば洗面道具とか水とかを買いに出かけたのだろうとぼくはまだまだ眠い目をこすりながらも考えていた。
所定の位置と勝手に決めた台の上には鍵がなかった。だから、ぼくがシャワーを浴びても彼女は入ってこられるだろうと安心して、ぼくは服を脱いだ。大きな鏡は自分が10代でも20代の前半でもないことをありのままに告げている。かといって悪いことでもなくこの状態を維持すればいいのだ、とぼくはひとごとのようにぼんやりと小さな決意をしていた。
実際は違うのだが、シャワーの穴からも潮のにおいがするような印象があった。海沿いの町。大きなホテルでもなく、開発業者が回収を見込んで手をかけたリゾート地でもない。今後をどのように展開するかも視野にいれていないような場所だった。その朝にぼくはひとりだった。
タオルを身体に巻きつけ、部屋にもどってテレビをつけた。ローカルなニュースは今日の天気を知らせてくれる。赤い太陽のマークがこれからの日程の快適さの分量のすべてを教えてくれる。すると、鍵があく音がした。
「起きたんだ」彼女はテーブルの上に鍵を置いた。もう片方の手は、後ろに隠されている。
「うん。どこ行ってたの?」
「昨日の河」
「なんかあった?」
「カニを見つけたかったから。何匹も、いたよ」奈美は後ろの手をもとに戻してビニール袋を前方に差し出した。そこには不思議な色の甲殻類がいた。彼女は薄い皿にも似たお盆のようなものをお茶のセットの下から探し、そこに水ごとカニを入れた。それが済むとベランダの窓を開け、そこに容器ごと置いた。
「やっぱり、いたんだ」
「なんか、信じてなかったみたいだから。違うかな、わたしも見たこと、信じていなかったのかも」彼女は屈んでじっとその姿を見ている。「可哀そうだから、あとで戻すけど。ちょっとだけね。ちょっとだけ、わたしにつかまる」
「ちょっとだけ、つかまる。奈美も、ぼくに」
「わたしは、ずっとだと思うけどね・・・」と、奈美は小さな声で言った。大きな鐘を打ち叩いて表明することもしないが、真実の響きがそこにはあった。ぼくはヨーロッパの国にいたときの前の女性とのひとときを思い出していた。彼女とぼくの間には揺るぎのない永続性が宿っていると信じており、あの遠くまで聞こえる鐘の音がそのすべてを表していた。しかし、絶対など存在しないのだといまのぼくは知っている。それは約束を放棄するという問題でもなかった。心変わりという簡単な、かつ単純な表現でもない。カニはこの浅い入れ物をいつか越えるのかもしれない。反対に、いくら努力しても縁はすべり、何本もの足があっても乗り越えることは不可能なのかもしれない。だが、誰も確かな答えなどもっていないのだ。少なくともこの今朝のひとときは。
「朝ごはんの時間も終わっちゃうよ」いつまでも、カニを見続けている奈美の背中にぼくはそう言葉をかけた。
「そうだね。干物とかシンプルな朝の食事かな」
「シンプルでも、都会で暮らしているぼくにとっては、とても贅沢なひとときだよ」
「いつか、毎日、食べさせてあげるようになるよ」
奈美はそう言ったが、ぼくはそれを毎日望んでいる訳ではないのかもしれない。奈美との関係性ではなく、慌しい状況で食事など軽んじてしまう傾向と誘惑が都会には多いという問題としてであった。
ぼくらは向かい合って食事をした。人間の衝動としての愛情が、こういう日常の営みの繰り返しによって磨耗され軽減されていく傾向や失跡があった。ぼくらは物語のなかの登場人物としての優雅なお姫様と王子様ではいられないのだ。時間がくれば腹が減り、ストレスが増えれば自分にも近くにいる相手にも意味もなくあたるのだ。その全てを含めて生きるということかもしれなかった。
コーヒーを最後に飲み、ぼくらの食事は終わった。あとは荷物をまとめチェック・アウトするだけだ。
部屋に戻り、奈美は化粧をはじめた。ぼくはまたテレビをつける。天気予報に変わりはない。この数分では物事の変化にはすべてが足りないのだ。ぼくは、靴下を履き、靴に足を入れた。靴のなかのどこかで、布を通してだか、直かにだが区別のつかないものだったが、海岸特有の微細な砂が入りこんで取り除くことのできない感触があった。
「用意できたよ。ベランダのあの子も、放してあげないと」
ぼくは両手に荷物を持ち、奈美はまたビニールにカニを入れた。
「まだ、元気なの?」
「元気そうだよ。もとのところがいいんだよね」
「ちょっとの間つかまえて、また手放すんだな」ぼくは意味もなくそう言ったが、やはり、そこにはたくさんの意味も込められているような気がした。だが、ずっとこの小さな場所にいれば窒息するだけなのだろう。もっと似合いの場所がある。前の女性もそういう類いの場所を見つけたのだろう。そして、ぼくはこの奈美との関係を居心地のよいものと判断すること自体に疑いの破片すらも挟むことはなかった。負け惜しみにも似た気持ちもかすかにだがあった。