爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

流求と覚醒の街角(23)粒子

2013年07月13日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(23)粒子

 ぼくと奈美は、なだらかな丘のうえを歩いている。その丘の斜面から見下ろすと海も見えるので、山にいるという感じもしない。海鳥もそう遠くないところを飛んでいる。悲鳴のような泣き声を時おり空に撒き散らして。平野がずっと意識もなくつづくという場所ではないようだ。日本の海岸線の多くはそうかもしれず、山に遊びに行くという行為と、海に行くという楽しみをはっきりと分けていた都会育ちの自分にはよく分からないものだった。

 ここにとどまっていると空気が澄んでいることが理解できる。必要以上に呼吸を調節しなくても、自然と身体のなかまでも洗われていくようだった。視野もすこし拡がったような感じもする。光の粒子が葉っぱに当たり、その粒がはねかえって自分に当たる。奈美の髪にも注がれる。世界は輝きに満ちていた。

 なだらかな丘は微妙にくだったり、登り坂に変化した。ぼくらはどこかに向かっている訳でもない。かといって、立ち止まったままでいるには快活すぎた。そして、気分も高揚させるような日差しと空気が充満していたのだ。すると、小さな神を奉ったような場所があった。

「祈ろうっか」と、奈美は無邪気に言った。そして、石が点々と敷き詰められ、その石の表面も磨耗して滑りやすそうなうえを奈美は軽やかに歩いていった。ぼくは意味もなく後を追わず、その場に立ち尽くした。「どうしたの?」と、奈美は振り返って訊く。すこし肌寒い風が吹いた。カサカサと乾いた音を葉っぱは鳴らした。

 ぼくは自分の気持ちを分析する。前の女性と別れたことは不本意だった。失ったものが大き過ぎて様々なものに頼ろうとした。しかし、何をしても、それはもう戻ってこなかった。ぼくはあの日を境に自分の力以上になれそうなものを信じなくなり、また許そうともしなかった。頼ることを自分に許そうともせず、せっかく頼ったのに改善してくれなかった何かを許してもいなかった。

 奈美はあきらめてひとりで歩いていった。ぼくは立ち止まったまま反対側に振り返り、ぼんやりと小さく見える漁船などを見た。

 しかし、ぼくは失ったものを過大に評価して祈るのをやめたが、反対に新しく与えられたものを喜びとともに気軽に有り難がっても良かったのだ。いま考えれば。その後ろ向きな考えが祈りや憧憬を否定し、未来の道をすぼませているようだった。奈美はぼくとの出会いをいままさに感謝しているのかもしれない。その永続性を願っているのかもしれない。目をつぶり、首を少し下に向け。

 ぼくは自暴自棄に陥りそうだった過去の自分をそこで取り戻していた。あれは、祈りで解決するものではなかったのかもしれない、数本の電話や、いくつかのプレゼントが功を奏したのかもしれない。いや、自分の気持ちをありのままに、誠意という状態さえ忘れたぐらいに無心にもう一度ぶつかれば良かったのだ。だが、ぼくはしなかった。その責任をどこかに、何かになすり付けようとしているのだろう。それは誰かにとっても迷惑だろうが、ぼくはそうでもしなければ生き延びられなかったのだ。少なくとも、あの当時は。

 ぼくはそこで目をつぶる。感謝したいことを探す。やはり、奈美と会えてよかった。必然的に恋人になるには前の女性との関係が清算されていなければならない。辛さや過酷さを伴うとしても。ぼくはあの経験を通して、女性に求めるものが変わったのだろうか。変わるということは一体どういうことなのだろう。あの素晴らしい要素をもっているひとを他のひとにも求める。それは不可能なことだ。さらに不可解でもある。あの嫌な部分だけは絶対に拒絶しよう。その決意がいらないほど、前の女性に対して、ぼくの採点は甘かった。過保護な親以上にぼくはただ惚れていたのだ。

 奈美はだいぶ経ってから戻ってきた。そして、「清々しい場所だったよ」と言葉を告げた。
「どんなことを願うの?」ぼくは、興味本位で訊いた。
「内緒だよ」奈美はぼくの横に来て、やはり同じように海岸線を覗き込んだ。「ほんとは、わたしのお父さん、もっと親しみやすいひとになればいいのにな、とか」
「なんだ、ぼくのこと、認めてないのか・・・」
「違うよ。いつも、そうだから」

 奈美もまた別れを経験しないとぼくには出会わなかったのだ。古い童話のように決まったひとりが存在するわけではない。擦りむいたひざや、縫った傷を通して、怖さや痛みをかばいながら、ぼくらは新しいものに向かうのだ。しかし、許さないという感情も根底にはのこっている。それは、意識しすぎているという当然な回答につながる過程だった。ぼくはあの小さく見える漁船を憎みもしないだろう。自由に飛び回っている鳥を憎みもしない。奈美の父はぼくを許さなくなることはあり得た。最愛の娘を傷つけでもしたら、ぼくは憎悪の対象になるのだ。人間が生きるということには、些細でもない困難やとげが待ち受けているようだった。だが、それでも、奈美に出会えたことは良かったのだ。

 ぼくらは長い階段をくだる。奈美があそこで願ったことはそのまま浮遊し置き去りにされてしまう。それを何かが適切なタイミングでつまみあげ、奈美の現在の場所を探しもせずに与えてくれる。彼女に幸せだけが来ればいい。ぼくは、そういう類いのことを願っても良かったのだ。階段を降り切ってしまった自分は、まだ自分だけで解決することを求める人間になった。ぼくは奈美を幸せにする力を有しており、それと同時に奪われてしまう機会があれば、それさえも避けられない無力な男でもあるのだ。だが、いまは横にいる。考えてみれば、それで充分なのだった。ぼくは振り返って坂の上を見上げる。草と木しか目に入らず、誰かの願いが浮遊している痕跡も無論どこにもなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする