流求と覚醒の街角(28)ベランダ
翌朝、奈美はベランダで洗濯物を干していた。ぼくは夢のなかにいつづけようと努力して目をつぶっていたが、鳥の声が耳に入ってくると、もう駄目だった。あと五分だけと未練たらしく望む平日ではないことも逆に眠りを遠ざける作用があるようだった。彼女の家のベランダ側には川があることによって景観を遮るものがなかった。ちょっとした空間があって、川沿いの樹木が爽やかさをもたらし、対岸のマンションもすべてが露になっている訳ではない。春になれば、それは多分、ピンクに色づくのだ。そのときには、ぼくも早起きをしてそのベランダから花々を見ようと思う。
彼女は鼻歌をうたっている。大きなものが干され、乾燥をまつ。
「起きた?」
彼女はこちらに視線を向けないまま、そう言ってラジオをつけた。ぼくは首元に汗をかいた感触があった。
「洗濯したのに、悪いな。なんだか汗ばんでる」
「また、明日でもするからいいよ」
彼女は背中を向けたまま冷蔵庫のなかを点検している。
「冷たいものでも飲む? あったかいのがいい?」
「冷たいの」ぼくはそう言ってからベランダに向かった。自転車に乗った野球少年らしいユニフォーム姿の子が通り過ぎるのが見えた。「このそばにグランドなんかあるんだっけ?」
「学校のなかじゃないの。たまに夜遅くまでやってるから。仕事帰りに見るときもあるよ」
鳥が木を渡っている。その生き物はこちらを見る。部屋のなかのぼくらの関係性を確認するように。
「この景色、いいよね」奈美は直ぐ、後ろにいた。手にはグラスがあった。「あそこのベンチに朝、散歩なのか老夫婦がすわっていて、ほのぼのとしていいなとか思うことがあるんだ。いまは誰もいないけど」
「ここにいるだけで、いろいろあるんだね」
「生活がね、あるから」
「じゃあ、引っ越したくない?」
「いまのところは。通勤もそれほどきつくないし」
「どれぐらいだっけ?」
「三十分もかからない」
ぼくはアイスコーヒーを飲む。無意識に自分の頬を撫でると、ざらざらとしたものが手に触れる。次に髪に触る。寝癖でぼさぼさだった。好きな相手に気に入られるため、髪形や清潔感を最前にもってくる。当初は。しかし、夜もいっしょに過ごすようになれば、見られたくない部分も見られてしまう。そう思いながら、後ろを向くと、奈美の顔には化粧の気配はなかったが、髪型はきちんと整っていた。
「どうしたの?」
「頭、ぼさぼさで悪いなって」
「なに、格好をつけてるの」
ぼく用の歯ブラシがある。それを咥えて鏡に向かう。洗面所は玄関側にある。だから、川とは反対だ。こちらには小さな路地があって、昨日、寄ったコンビ二もその先にあった。ぼくらは仕度を済ませ、外にでた。川沿いを歩く。先ほど、奈美が言ったベンチにぼくらも座ってみた。朝の散歩の途中の一休みをしている老夫婦。彼らは激しい喧嘩などしない年代になっているのだろうと勝手に決める。すべてを乗り越えた優しさとなだらかさがその関係を美しいものにする。一飛びにはできないものだ。ぼくは奈美とそういう接点がつくられていくことを望んだ。すると、もっともっと互いのことを知ることが必要だった。奈美の化粧のない顔を見て、ぼくは寝癖を見られる。風邪をこじらす時期もいつかあるのかもしれない。互いの看病もあって、いたわりも生まれる。いつか、そうなるのかもしれない。
ぼくらはまた歩き出す。校庭があって、その周囲には小さなサイズの自転車が停まっている。なかでは金属バットの音がする。彼らは、何時間ぐらい練習するのだろう。そして、彼らも誰かのことを好きになる。何十年も経って、朝の散歩時にベンチにすわる。やはり、誰一人としてそんな未来を想像していないだろう。今日も全力で走れるならば、明日はもっと速く走れるのだ。昨日より打ったボールの飛距離は伸び、自転車も大きな車輪のものになる。好きになった少女たちも昨日より確実に大人になり、きれいになるのだ。
「あれだけ動いたら、ご飯もおいしいでしょうね」
「お母さんも作り甲斐があるよ」
「やっぱり、男の子と女の子じゃ食欲が違うもんね」
たくさん食べる子どもがいいのか、愛想の良い可愛らしい女の子を育てる方が楽しいのか、ぼくには分からない。どちらもいればいいのだろう。だが、どちらかでも幸福に間違いはなさそうだった。
ぼくらは駅に向かって歩いた。この駅を奈美とは無関係に想像することは今後、できなくなる。ぼくらはそういうものを採集して生活しているのだ。あの場所。あの音楽。あの川。あのベンチ。そして、あのベランダ。奈美の家のラジオ。彼女の鼻歌。すべては消え去るものであり、すべてを通過して忘れてしまう人間でもあるぼくだった。あの少年の日の頑張り。スポーツをしている姿をあの当時の意中の少女が見てくれるという喜び。だから、もっと頑張ったのだ。ぼくは頑張りと安定との差を考えていた。継続と最初の芽生えのようなものも。あるものと、なくなったもの。そう思っていると電車がきた。ふたりは同じ車両に乗る。同じところに運ばれる。ベランダから見えるベンチは動かないが、この座席は移動をしてくれるのだ。それは時間でもあり、場所だった。昨日より速く走ることなど望んでもいないし、もう無理だろう。その代わりに別の乗り物があるのだ。車窓から見知らぬ家のベランダが見える。あのなかにも、いくつもの暮らしがあるのだ。確かめてみなくても実際にあるのだ。踏み切りの音が聞こえるように。
翌朝、奈美はベランダで洗濯物を干していた。ぼくは夢のなかにいつづけようと努力して目をつぶっていたが、鳥の声が耳に入ってくると、もう駄目だった。あと五分だけと未練たらしく望む平日ではないことも逆に眠りを遠ざける作用があるようだった。彼女の家のベランダ側には川があることによって景観を遮るものがなかった。ちょっとした空間があって、川沿いの樹木が爽やかさをもたらし、対岸のマンションもすべてが露になっている訳ではない。春になれば、それは多分、ピンクに色づくのだ。そのときには、ぼくも早起きをしてそのベランダから花々を見ようと思う。
彼女は鼻歌をうたっている。大きなものが干され、乾燥をまつ。
「起きた?」
彼女はこちらに視線を向けないまま、そう言ってラジオをつけた。ぼくは首元に汗をかいた感触があった。
「洗濯したのに、悪いな。なんだか汗ばんでる」
「また、明日でもするからいいよ」
彼女は背中を向けたまま冷蔵庫のなかを点検している。
「冷たいものでも飲む? あったかいのがいい?」
「冷たいの」ぼくはそう言ってからベランダに向かった。自転車に乗った野球少年らしいユニフォーム姿の子が通り過ぎるのが見えた。「このそばにグランドなんかあるんだっけ?」
「学校のなかじゃないの。たまに夜遅くまでやってるから。仕事帰りに見るときもあるよ」
鳥が木を渡っている。その生き物はこちらを見る。部屋のなかのぼくらの関係性を確認するように。
「この景色、いいよね」奈美は直ぐ、後ろにいた。手にはグラスがあった。「あそこのベンチに朝、散歩なのか老夫婦がすわっていて、ほのぼのとしていいなとか思うことがあるんだ。いまは誰もいないけど」
「ここにいるだけで、いろいろあるんだね」
「生活がね、あるから」
「じゃあ、引っ越したくない?」
「いまのところは。通勤もそれほどきつくないし」
「どれぐらいだっけ?」
「三十分もかからない」
ぼくはアイスコーヒーを飲む。無意識に自分の頬を撫でると、ざらざらとしたものが手に触れる。次に髪に触る。寝癖でぼさぼさだった。好きな相手に気に入られるため、髪形や清潔感を最前にもってくる。当初は。しかし、夜もいっしょに過ごすようになれば、見られたくない部分も見られてしまう。そう思いながら、後ろを向くと、奈美の顔には化粧の気配はなかったが、髪型はきちんと整っていた。
「どうしたの?」
「頭、ぼさぼさで悪いなって」
「なに、格好をつけてるの」
ぼく用の歯ブラシがある。それを咥えて鏡に向かう。洗面所は玄関側にある。だから、川とは反対だ。こちらには小さな路地があって、昨日、寄ったコンビ二もその先にあった。ぼくらは仕度を済ませ、外にでた。川沿いを歩く。先ほど、奈美が言ったベンチにぼくらも座ってみた。朝の散歩の途中の一休みをしている老夫婦。彼らは激しい喧嘩などしない年代になっているのだろうと勝手に決める。すべてを乗り越えた優しさとなだらかさがその関係を美しいものにする。一飛びにはできないものだ。ぼくは奈美とそういう接点がつくられていくことを望んだ。すると、もっともっと互いのことを知ることが必要だった。奈美の化粧のない顔を見て、ぼくは寝癖を見られる。風邪をこじらす時期もいつかあるのかもしれない。互いの看病もあって、いたわりも生まれる。いつか、そうなるのかもしれない。
ぼくらはまた歩き出す。校庭があって、その周囲には小さなサイズの自転車が停まっている。なかでは金属バットの音がする。彼らは、何時間ぐらい練習するのだろう。そして、彼らも誰かのことを好きになる。何十年も経って、朝の散歩時にベンチにすわる。やはり、誰一人としてそんな未来を想像していないだろう。今日も全力で走れるならば、明日はもっと速く走れるのだ。昨日より打ったボールの飛距離は伸び、自転車も大きな車輪のものになる。好きになった少女たちも昨日より確実に大人になり、きれいになるのだ。
「あれだけ動いたら、ご飯もおいしいでしょうね」
「お母さんも作り甲斐があるよ」
「やっぱり、男の子と女の子じゃ食欲が違うもんね」
たくさん食べる子どもがいいのか、愛想の良い可愛らしい女の子を育てる方が楽しいのか、ぼくには分からない。どちらもいればいいのだろう。だが、どちらかでも幸福に間違いはなさそうだった。
ぼくらは駅に向かって歩いた。この駅を奈美とは無関係に想像することは今後、できなくなる。ぼくらはそういうものを採集して生活しているのだ。あの場所。あの音楽。あの川。あのベンチ。そして、あのベランダ。奈美の家のラジオ。彼女の鼻歌。すべては消え去るものであり、すべてを通過して忘れてしまう人間でもあるぼくだった。あの少年の日の頑張り。スポーツをしている姿をあの当時の意中の少女が見てくれるという喜び。だから、もっと頑張ったのだ。ぼくは頑張りと安定との差を考えていた。継続と最初の芽生えのようなものも。あるものと、なくなったもの。そう思っていると電車がきた。ふたりは同じ車両に乗る。同じところに運ばれる。ベランダから見えるベンチは動かないが、この座席は移動をしてくれるのだ。それは時間でもあり、場所だった。昨日より速く走ることなど望んでもいないし、もう無理だろう。その代わりに別の乗り物があるのだ。車窓から見知らぬ家のベランダが見える。あのなかにも、いくつもの暮らしがあるのだ。確かめてみなくても実際にあるのだ。踏み切りの音が聞こえるように。