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悪童の書 o

2014年08月23日 | 悪童の書
o

 むかしの父親というのは何だか恐かったものである。

 プラスチックというのは劣化する。冬場はとくに固くなっている。

 友人の家で遊んでいた。裏庭のようなほんの小さな一角にゴミ用の大きなポリバケツを利用して魚が飼われていた。横からは透明度がないので見えない。上の水草をもちあげ、魚影を見つける。背中と呼ぶのか、後ろ姿と呼ぶのか背びれ側を見ている。こころを奪われていた所為か、ぼくか友人のどちらかのひざが軽くバケツに触れてしまった。もちろん、悪意もまったくない。ちょっと当たったぐらいの感覚だろう。感触もぼくにはないのだから、友人の足かもしれない。だが、やはり、ぼくのひざがいつもおとなしい魚の住処にとって狂気に変貌したのかもしれない。正解としては、丁度、こわれるタイミングと合致してしまっただけだろう。バケツは裂け目を見つけ、そこからちょろちょろと水がこぼれはじめる。そして、父親が参上する。

 ぼくらの振る舞いの是非も知らないのに、怒れる首輪を放たれた彼は、
「こうしないとこわれないんだよ!」

 と、半ば絶叫しながらバケツを足の裏で粉々にする。大人になった自分の視点から彼の行動を判断すれば、そもそも子どもの遊ぶ甲高い声が耳に響いて腹立たしかったのかもしれず、また、会社でおもしろくないことがあったのかもしれない。ぼくらはノアと反対に水がなくなることを見守るしかない。その後、どう解決されたか、魚の行く末はどうなったか、まったく覚えていない。ただ、しばらく経って友人と遊ぶときに、ぼくは彼の父の行動をふざけてマネした。レオンという映画のなかの狂える捜査官のように。

 理不尽も許されていた。学校の教師にもしばしば横頬を叩かれた。

 母親たちも、悪かったら、どんどん叩いてください! と、人質の人権を無視してよく言っていた。アムネスティなど知らない子どもたちなのに。

 暴力などまったくない世界を想像することすら困難になる。だが、どうあっても弱い立場に手を上げることは許されてはならない。強いものに挑むときのために行使するのだ。

 ある会話の再現。

「恋人とか妻とか、なぐったときある? そういう奴、たまに、いるよね…」
「あの行為の最中に、ケツを叩くのは別ですよね?」

 全世界の女性たちに謝らなければならない。まじめな質問をした自分のことを、どこかに埋葬しなければならない。趣味の問題ではなく、生き方を問おうとしたのに、結果がこれだ。

 自分が誰かを理由があって、あるいは理由もなくて殴ったことの方が、同じ理由で殴られたことより少ないようだ。収支が合えばいちばんよいのだろうが、0回対0回ならば、スポーツとして最もおもしろくない試合になってしまう。記憶にものこらない。生きている証しというのは記憶だけなのだ。多少の身体についた傷も、思い出のサンプル品になり得る。もちろん、程度による。後遺症になるほどまでに行われるのは決してよくない。

 怒りの沸点はひとそれぞれだ。どうやって解決させ、自分自身の怒りを鎮め、納得させるのかも、ひとそれぞれだった。あの友人の父の気分はおさまったのかもしれない。ぼくらには数時間、動揺がある。謝るということも正しくない。

「バケツ、割って、すいません」

 なんと理不尽な世界なのだろう。結局、謝りもしない。ぼくは家に帰ればいいだけで、友人がその後、軒下にぶら下げられて鞭打たれようが、ぼくになす術もない。ビリー・ホリディが歌ってくれるよう望むしかない。

 そんな自分も同様な父が家にいるのだ。スポーツでもそこそこの成績をあげ、学力も自慢できるほどになったが、ついに彼にも、同じく母からも誉め言葉を受け取らなかった。ある日、大人になり、よその家で食事に招かれている最中に、自分の子どものことを誉めるということがこの地球にあることを知り、心底、驚く結果につながる。でも、どこかでうらやましいと思いながらも、本心ではないようにも感じられる。鉄を熱して叩き、水で冷やし、また熱し、という繰り返しの工程をした方が、のちのち自分の身になった。手加減を間に入れてしまえば、完成品としては無様なものだろう。ぼくは程度の話が分からない。どちらかという問題にしてしまっている。白か、黒。

 彼らも負けた戦争の最中に生まれ、ドタバタしたなかで大人になったのだ。完全なる方法論も教育されず、親になったのだ。その子どもに責められ、こうして指摘されること自体、間違っており、当然、不本意でもあるだろう。

 ぼくは理不尽に馴れようとする。魚だって、そもそもポリバケツのなかで暮らすよう産み落とされていない。きれいな水槽ならまだましだ。

 最終的にぼくは福島のいわきの立派な水族館の水槽のなかにいるアロワナの前に立つ自分を発見する。同じ仕打ちが待ち受ける。暴虐的な津波の前で水槽も何もかもが破壊される。あの父親は正しかったのだ。ぼくのために、預言者の役割を全うしていただけだったのだ。彼は、あのポリバケツを蹴り壊すことによって、ぼくに訪れる未来を、避けられない破壊を教えようとしていたのだ。

 ぼくは悲しむ。なにを悲しんでいるのか、よく分からないながらも。謝りに行きたいと思う。誰に謝るかも分からない。友人に尻を叩かれた女性のもとへとか。暴力は喜びの源泉にもなるのだろうか。




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