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Untrue Love(130)

2013年03月18日 | Untrue Love
Untrue Love(130)

 あれからもまた時間が経った。何回もの熱帯夜を過ごし、秋の落ち葉を足のうらで踏みしめる。また今年。ことしもまた。咲子がいなくなって十年以上も過ぎていた。

 ぼくはビルのなかにいる。空調がきちんと自分の仕事を果たしても、そとの灼熱と呼べる日差しを見ると、「暑い」という言葉が自然と口からこぼれた。さらに例年より室内の温度設定は高めのようだ。冷え過ぎとの女性たちからの苦情もあった。それも、あと、数週間で夏休みになる。避暑という言葉を頭のなかでカキ氷のシロップのようなものとして想像する。だが、当分は暑さのなかにいる。冬はほんとうに涼しさや寒さを迎えてくれるのだろうかといらぬ心配をして。

「山本さん、いろいろ誘ったら結構みんなビールを欲しているみたいで、人数が多くなっちゃいました。だから、店予約しましたから。外出とか、これから、なかったでしたっけ?」
「ないよ。この暑いのに外を出歩かせないでくれよ。そうか、妻に電話しておこうかな」

 ぼくは、そう言いながら部屋を出た。手には電話があって、その前にビルの一階の機械で現金を引き出した。何人ぐらい来るのか分からない。だが、たまには仲間の近況を聞くのも悪くない。外を見る。夕方になっても太陽は衰えそうになかった。夕立でも降らないかなと期待して空を見上げるも、その予感すらまったくない。まさに彼の時代なのだ。ぼくらを干上がらせ、冷たいビールを報酬として与えてくれる。

 ロビーでいつみに電話をかけた。彼女の珍しい気だるそうな声が耳に入った。
「きょうは、用事がなかったからソファに横になっていたら、いつの間にかウトウトしちゃって。用事?」
「いや、飲み会ができて、ちょっと遅くなりそうだとね、伝えておこうと」
「あまり、飲み過ぎないでね」

 ぼくは、若い頃、彼女がカウンターの向こうにいて、その彼女が用意してくれたグラスで飲みものを口にしたときのことを思い出していた。ぼくは家ではなぜだかその情景を忘れていた。
「ほどほどにするよ。何か急に必要なものある?」
「ないよ」そう言いながらもどこかでためらっていた。「いまね、むかしの夢を見ていた」
「どういうの?」

「仕事、大丈夫?」それは話が長くなることの前触れなのか。でも、ぼくの返事も待たなかった。「そこにね、咲子ちゃんが出てきた」
「咲子が? 彼女、何か言ってた?」
「わたしのこと忘れないでねって。でも、いまさっきまでわたしすっかり忘れていた。申し訳ないなと思って」
「みんな、忙しいんだもん。忘れるよ」だが、ぼくもこの日に彼女の幻影を取り戻していたのだ。
「写真、どっかにあったかな?」
「あるよ。彼女がバイトを辞める前に、キヨシさんといつみといっしょのが」
「そうか。分からないから、帰ったら、今度、探して」
「うん」でも、ぼく自身がその保管場所を思い出せなかった。ただ、それを飾っていた若き自分が過ごしてきたアパートの一室にあった日に灼けたカーテンの褪せた柄の色彩のことだけが鮮明に浮かんでいた。その部屋に置かれてあった写真。

 連絡をすませたぼくはエレベーターに載り、部屋に戻った。
「奥さん、許してくれました?」
「うん。飲みすぎないでねって」
「一途なんですね」
「誰が?」
「山本さんに決まっているじゃないですか。ここでふたりで会話をしているのに」
「ぼくが一途ね・・・」
「反対意見でも。最近、気になって仕方がないひとがどこかにいるとか?」
「いないよ。まったくいない」
「じゃあ、一途決定ですね」

 ぼくはその解釈に不本意だった。いや、過剰に評価されていることがむず痒かった。ぼくは、あの日、木下さんとユミのことも捨て切れずにいた。咲子の死をきっかけに継続することを怠るようになった。あれがなかったら、自分は誰かひとりだけに専心して愛することなどできなかったのだ。一途にさせたのも咲子であり、ぼくの青春の日々をすぱっと終わらせたのも彼女が遠くない原因であった。

 仕事も終わり、十二人もの会社の人間が奥の座敷に陣取っていた。一番、年長がぼくであり、いつの間にかぼくに与えられる役目も変わっていった。若い彼らは男女間の友情という議題で意見を交わしていた。成立するという側と、そもそもそんな感情は下心の有無で膨らんだり、しぼんだりする風船のようなものでしかないと主張する側がいた。ぼくは、静かにビールを空けるペースを守りながら、聞くでもなく、聞かぬでもなくという感じでそこにいた。

「順平先輩の意見はどうですか? やっぱり、ないですよね。好きか嫌いかだけですよね。男女間なんか」彼は少し酔っていた。その為に来ているのだからとがめる必要などまったくない。ただ、となりの座敷にまで響きそうな声のボリュームを少しだけ抑えてほしかった。

「やっぱり、あるだろう。あのひとと恋愛感情などいっさい抜きで、もう一度会って、無駄話をして大笑いしたいなとか」
「一途な山本さんにもいるんですか?」
「そりゃ、いるよ」ぼくの念頭にあるのはユミだった。彼女との肉体的な接触など間に挟まずに、ただ、昔話に花を咲かせたかった。だが、世間の目はそうは見ないだろう。恋の再燃という言葉でぼくの行動を定義するかもしれない。さらにいえば、ぼくは早間と友情関係を持っていると思って大学の時期を過ごしてきた。だが、あれは友情などではなかったのだ。どういう風に規定すれば良いのだろう。その場で、相応しい言葉は直ぐに出てこなかった。

 ぼくが黙っていると彼らの話題は突然、変わっていた。飲みながら酔ったひとの話題が急速に変更しないことなど起こりえない。次から次へと焼畑農業のように場所を探す。それで、頭を占めている暑さの拘束から逃れられるなら目出度いことだった。

 数時間経って、飲み会もお開きになる。途中まで同僚たちといっしょだったが、乗換駅になると徐々に減った。するとひとつ開いた座席にすわれた。ぼくは目をつぶる。この電車がいつみの元に戻してくれる。可能であれば、二十年も前に過ごした夏休みに戻してくれることも願っていた。ぼくは土手を歩いている。遠くから咲子が歩いてくる。ぼくはすれ違う際に、会釈以上の声をかけるべきなのだ。「君は東京にくるべきじゃなかった。地元にも大学はあるはずだ。車でぼくを、アパートにたどり着けなくなったぼくを決して迎えにくるべきではない」だが、どれもその当人には届かない。あれは、ぼくが作った夏の少女という題材のモデルだったのだ。それでも、いつみも同じく今日、夢のなかに咲子を見つける。いた人間がいなくなり、いなくなった人間がまた現れる。ぼくは一途であり、どうしようもない浮気性であった。また何度も何年も灼熱の日々を越えれば、見方も変わってくるのだろう。美化という調味料をほんのちょっとずつだが加えながら。

(終)


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