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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(26)

2013年03月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(26)

「パパ、マーメイドが立っているよ、あそこ」由美は失礼にあたると思ったのか、小さな指をそちらに向けずに反対にあごでしゃくった。
「行儀悪いな、そういうの。パパ、嫌いだな」ぼくは、不快に思いながらも興味をひかれ、目をユミがあごで指し示した方向に向ける。「ほんと? 由美、視力が良いのかな。パパには見えないよ。でも、矛盾した表現だね、立っている人魚」
「むじゅんって、なに?」
「辻褄が合わないこと」
「なに、つじつまって?」

「疑問が多いね。答えられるかな」ぼくは思案する。優しい妻。ぼくの本が山積みになっている。その前でサインをしている。それはただの願望という範囲だった。辻褄って、なんだ。「何でも突き刺せるフォークを作ったとするね、それとは別にどんなものからも守る堅い殻をもった虫がいるとするね。どっちが強い?」
「分からないけど、何だか残酷な話だね」
「残酷ってなに?」ぼくは、娘をからかった。

「由美が訊いているんだよ、もう。でも、人魚って、男のひとはいないの?」
「考えたこともないけど、動物の下半身をもった人間は神話にいるんだよ」
「気持ち悪いね」彼女は想像したのか苦いものを食べたような表情をした。悲しきケンタウロス。
 ぼくらが話しながらそのまま道をすすんでいると久美子の背中が見えた。我が隣家のマーメイド。
「いたね、人魚」

「男の子としゃべっている。下は普通の足」娘は安堵した様子を浮かべる。それから、大きな声で久美子の名前を呼んだ。
「なんだ、由美ちゃん。びっくりした。お散歩なの?」
「そう、パパと。パパいつか4本の足をもった動物になるの。顔と手はそのままで」

 そばにいる高校生の男子が笑った。彼もいつか娘の疑問攻めにあうときが来るのだ。それまではデートを慎み、勉強でもしていなさい。それを怠ると、いったい、どうなるのだろう?

 ぼくらは挨拶程度に済ませてすれ違い、またぼくと由美は家の方にすすんだ。「金魚を夜店ですくったのはあのひと?」
「そう。青春の金魚。上手だった」
「人魚もすくったりできるかもね」ぼくは自分の言葉を恥じていた。それで、自分がケンタウロスになった姿を想像して静かに歩いた。ぼくはキーボードに文字を打ち込み、想像力があれば、そして枯れなければ、それは困った状況でもないようだった。最悪ではない。だが、妻はいやがるだろう。窮屈そうにベッドの横に寝そべっている夫。「これで、どうするの?」と彼女は顔をしかめる。「あなた、最近、獣くさくない?」と、それとは別にこの前に告げられた。その影響があらわれた想像だろうか。それとも、ぼくは、本気でその半分だけの動物になりかけているのだろうか。

 レナードは、前足を高く掲げた馬を模写している。それは躍動の表現であり、うまくいけばいななく叫び声すら聞こえるようになるのだ。筋肉は皮膚のしたに隠され、血液が際限なく流れている。それらにとって命があるということは動き回るということと同義語なのだ。過去の天才が依頼をうけて自分の天分を粗布のうえに封じ込める。

 彼は知人を通じて紹介された貴族の館でそれを見ていた。スケッチ・ブックを片手にわずかばかりの時間を無駄にしないように手を動かしていた。こうした傑作がこの地にあることはうわさとして耳にしていた。だが、それをこんな間近で自分で見られるとは思ってもいなかったので、興奮し感激していた。それでも、微細な筋肉も描き逃すまいと決心して集中の糸を切らさなかった。

 ぼくの集中は玄関のベルが鳴ったことで中断する。
「はい、どちらさま」ぼくは目の焦点が戻ってこないため、腕で強引にこすった。背中には由美が追い駆けてきて、ジョンも同じようにした。獣くささの原因はここだったのか? やはり、自分だろうか。ぼくらをするすると由美が追い越し、玄関を開けた。
「久美子ちゃんだ。パパ、まだ変身してないよ」
「今夜の満月あたりかな、すると。これ、貰ったんで、少し、由美ちゃんにあげようかなと思って」
「口止め料?」ぼくは、若さに嫉妬しているのだ。
「やだな」
「パパ、何それ?」
「後で説明するよ」
「説明しなくていいですよ。後ろめたくもないですから」照れたように久美子はドアを閉めて、立ち去る音がした。袋の中からクッキーのにおいがする。
「開けて、食べな。もうちょっと、パパ、仕事に精を出すから」

 レナードは翌日、マーガレットの肖像にさらに絵の具を足していた。一段落すると、スケッチ・ブックを取り出して昨日の馬の絵を彼女らに見せた。
「なかなか、入れないんでしょう? そういう場所」
「絵を見ることに夢中だったので、憧れとか遠慮とか配慮を忘れていました」
「しかし、見事ね。筋肉があって、躍動感があって」

 ぼくは手を止める。若さがある。それは筋肉の張りで証明されるのだ。久美子の肩甲骨には水泳用の筋肉が張り付いている。血があって、管は新鮮なままだ。キッチンの戸棚が開く音がする。皿に載せられたクッキーが由美によって運ばれてくる。
「どうぞ、パパ」

 ぼくの文章は躍動感を得られないまま遅々としてすすまない。ため息をつく。いななきすら聞こえず、か細い吐息で終わる。齧って落ちたクッキーのかすがキーボードの間に挟まる。歯の間にも挟まった。ぼくの躍動感はいったいどこに消えたのだろう。


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