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Untrue Love(129)

2013年03月17日 | Untrue Love
Untrue Love(129)

 あれから四年が経った。ぼくは二十七才になったばかりだった。あれ以来、誰かと緊密な関係を作ったり、維持したりすることを自然と避けるようになってしまった。喪失の予感に脅え、それならば最初から失う原因を作らなければいいと実際に覚悟したわけでもないが、安易にそう思っていた。当然、女性ともそうだった。

 だが、あの濃縮され、かつ凝縮された三人との関係をこれまでの不在の時間で均してみれば、そう悪い状況でもなかった。彼女たちとの思い出は、ぼくにとってはカギがきちんと閉められて保管されている宝のようなものだった。稀にしか取り出さないが、防腐剤もいらず、あらゆるものからの劣化や腐食や錆からも遠去けられている。だから、宝とも呼べたのだ。しかし、扉は開かれるようにできている。予期もしていない日に。

 ぼくの会社の製品がトラブルを起こし、毎日、行いつづけることが求められている仕事に穴を開ける原因となってしまった。未然に防ぐことができず、最小の事態で収まったが、結果は信用を失い、ぎくしゃくとした関係を作った。会社同士での大きな部分での謝罪は済み、あとは担当者間での小さなわだかまりを取り除く作業が待っていた。その担当の矢面に立っているのがぼくだった。ぼくはその会社の本社まで出向くことになっていた。

 午後からの約束だが、早めに着いた。駅から左側の小高い丘陵のなかに会社があるのだが、反対には海岸もあった。ぼくはこれからの重い任務を考え少しばかり憂鬱になり、気晴らしに食事がてら海岸線で昼の時間を過ごそうとしていた。手にはサンドイッチとペットボトルの紅茶があった。

 ウインドサーフィンを楽しむひとがいた。三十メートル先ぐらいには、女性のような人影があった。ぼくは石の上に腰を下ろし、パンの袋を開けた。謝罪のことも忘れ、ぼくのこころはいくらか高揚していた。世界はのどかであり、ぼくはその側の一員なのだと思おうとした。それは難しいことではなかった。カモメが空を飛び、小さな飛行機が雲に印しをつけていた。

 食べ終わって、詫びの言葉を考えながらもぼんやりとしていると後方から声をかけられた。

「それ、おいしかった?」
「はい?」ぼくはアマチュアの現実逃避者としてその座にあぐらをかいたり、その場しのぎのぼんやりとのどかな世界の住人であることに満足していたが、ある方向からの不意打ちのひと声により、その仮場のバランスを急に打ち破られて戸惑ってしまった。
「おいしそうに食べていたから、おいしいか、訊いたんだよ」

 ぼくはその声に早く気付くべきだったのだ。声の主に。いや、もっと前だ。あの人影は、土手にすわるあのひとに似ていると勘付くべきだったのだ。
「おどろいた、いつみさん。あ、これ、おいしい」彼女は笑った。「こんな所で何してるんですか?」
「それは、こっちのセリフだよ。こんなところで、海を見ながら、何で、パン食べてんだよ」

 ぼくは経緯を説明する。「うちの会社の機械が・・・」
「その割りに食欲はあるんだな。普通なら、喉も通らないという感じだけど」最後まで内容を聞くと、心配した表情になりながらも、にこやかにそう言った。
「そうでもないですよ。やはり、逃げ出したいぐらいです」
「大丈夫だよ、それぐらい。あとはナボナでも持っていけば」
「はい?」
「お見舞いや手土産はナボナと相場がきまってる」

「そうなんだ」ぼくも、彼女につられて笑う。「でも、いつみさんはなんでここに?」
「あそこに住んでんだよ」彼女は海の反対の道路の向こうを指差した。「あそこ」
「ここからだと、店に通うの遠くありません?」
「知らないんだ。もう行っていないよ。店もないし」
「え、ないんですか?」
「権利とかも売ったら結構なお金になった。それをキヨシと半分こにしたら、そこそこになったしね」
「キヨシさんは?」
「下北沢で店をやってるよ。同じようなのを、もうちょっと若者向けかな。教えるから、今度、行ってあげなよ。私よりわかくて可愛い店員さんもいるから」

「それで、ここに」
「結婚したんだよ。その報告の直ぐ後で申し訳ないんだけど、離婚もしたんだよ。それであのおうちを貰って、お金も分けてもらって」彼女は照れたような、はにかんだような表情になった。「なんだ、言ってから気付いたけど、私、誰かと別れるたびにお金を半分もらうんだね」
「旦那さんだったひとは?」
「さあ、知らない。少なくとも、あのうちにはいない」
「もう着なくなったおしゃれな服がのこってたり?」

 ぼくらには共通の思い出があった。ぼくがまだ学生のころ、彼女のむかしの彼氏の洋服をもらったことがある。彼女はそのことを覚えているのだろうか。
「え? ああ、あるよ。わたしが何かの記念に買ったネクタイが、けっこう高かったのにな、趣味が合わないとか言って包みも開いただけできれいなままのがある。順平くんなら、きっと合うよ」
「今度、取りに行ってもいいですか?」
「いいよ。今日じゃなく今度。今日はナボナをもって謝りにいかなければいけないんだもんな」

 ぼくは名刺に自分の連絡先も付け加え、彼女に渡した。いつみさんははじめて文字を見るひとのように不思議な様子で凝視していた。

「そこにかけるのがいやだったら、連絡先、おしえてください」ぼくは彼女が述べる番号をメモする。
「順平くんも、名刺なんかもつようになったんだと思ったら、びっくりしてさ」
「働きはじめて、店に行ったときに渡したと思いますよ。肩書きも大して変わらないし」
「そうだったっけ。どっかにあるのかな」彼女は海の方に目を向けた。まだ、波と風に乗っているひとがいた。ぼくもあのようにするするとどこかに逃げてしまいたい気持ちと、この再会を永久につかみたいとも同時に思っていた。
「よく、ここに、きてるんですか?」

「そう、たまに。天気もいいからね」彼女の腕は太陽を浴びているひとの肌だった。「そろそろ、お昼も終わるよ。もし、必要なら駅前に和菓子屋がある。大福がうまいんだけど、会社のひと、甘いの好きなのかな」
「ちょっと、寄ってみます。ありがとう。あとは誠意と大福ですかね」彼女は頷く。書類にはんこを押すようにただ無言で頷いた。「いつみさんは、まだここに? 帰らないんですか?」

「もうちょっとここに座ってる。それで、むかし、好きになった男の子のことを考えてみるよ。あいつ、ネクタイ似合うかな、とか、きちんとお詫びもできる人間になったかなとか」

「なっているといいですね」
 と、ぼくは言い、付いてもいないゴミや砂をはらうようにズボンのお尻の部分を手の平で軽く叩いた。いつみさんは海を見ている。風に揺れて彼女の耳があらわになる。ぼくは歩き出す。振り返ると彼女の背中が小さくなっていた。ウインドサーフィンの帆が波の反射に遭っている。扉がしまらないように、かんぬきがかからないように、ぼくはストッパーの役目となるようなものを探す。だが、もう大丈夫だろう。ぼくらはお互いをどれほど必要としていたか気付いていたのだ。飛行機雲がたとえ消えてしまっても。


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