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繁栄の外で(26)

2014年05月20日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(26)

 自分が生きて普通に生活してきたことが、その結果、誰かの不幸のきっかけになり、ある一人の将来を途絶えさせたり、大幅な目的の変更を余儀なくさせてしまったと考え続けた自分は、徐々にだが病んでいった。それで、誰かと密接に関係を継続させるということができなくなっていった。いままでもアウトサイドの人間だったが、もう一歩そとに出てしまった。そして、誰かと距離を置くことが通常のことになり、椅子2つ分ぐらい中に入ったような関係を保とうとした。そんな距離感で生きていくことは、こちら側では楽になったが、友人たち側の観点にたてば、それはとてもつまらないことだとも思う。当然の流れに身を任せれば、友人たちは次第に離れていった。こころの奥では、自分はそれを望んでもいた。浅瀬でいつまでもぐずぐずしていた自分は、だいぶ流れてしまった友人たちを探そうともしなかった。

 一回、アパートも引き払い、仕事も辞めてしまった。なにごとにも手のつかない自分は、この反省感を普遍的なものとして位置づけたかった。もしかして過去の誰かも、このような気持ちを持ったことがあるかもしれないと。その仲間がいるかもしれない。そうした気持ちをもったうえで、図書館にはいった。数々の本の中に気持ちを代弁してくれるものがあるだろうかと探した。そして、視力を悪くした。

 たくさんの文学書が、ぼくの頭脳の一部となった。また、多くの哲学書にも、悪行者のように手を染めた。それは、自分の精神の血肉となったかもしれないが、救いというものまでには到達しなかった。もしかして、宗教書のなかに、その解決策があるのかもしれないが、それを読み解くノウハウが自分にはなかった。それで、自分には焦りと焦燥が残った。

 このような解決不能の数ヶ月をおくった自分は、次第に両親にも疎んじられていくようになった。あいつは、普通の生活をおくることを努力していないだけではないのかと。当然といえば当然であるが、彼らは、ぼくが数十年育てた人間ではなくなっていることを知らなかった。ぼくは、もう一度、あの岸辺に戻りたいのかも分からなかった。ただ、罪悪感と、もう一度過去にさかのぼってやり直したいということだけを考えていた。

 誰かに話すことも考えても良かったかもしれないが、その度に多恵子の兄に殴られたことを思い出した。どう考えても自分の立場を弁護したりしてしまうだろう自分を恐れた。罪が決まってしまう前に、刑を定めていた。いつか、その地獄から逃れられるのだろうかと、自分は頭の中で模索した。時間は、いつまでたってもこころの上でも実際の両面でもいっこうに過ぎなかった。

 ある日、両親と衝突し自分は家を出て行くことを考えた。そこしか知らない東京を離れようと思った。さまざまなことを考え、冬のリゾート地で働けば、衣食住もつき部屋もあり、多恵子のことを考えることから離れられるだろうと思い付く。そして、履歴書を書き、そこに送った。何度か、電話のやりとりがあり、働き手を必要としているので、数日中に来てくれということになって、支度をして家を離れた。

 その日がやって来て、玄関を出る前に犬の頭をなでた。その犬は、ぼくがひとりで外に住んでいるときに実家にやってきたのだが、ぼくにも直ぐになれた。ただ、あまり賢くはないらしく、そのときもきょとんとした目付きでぼくを見た。

 電車は、徐々にスピードを上げ、眠ってしまった自分をいつの間にか遠くまで運んでいた。目を開けると雪景色になっていた。そうした場所は思い出を作るために訪れるのだろうが、ぼくはいろいろなものを捨てるために行ったのだと思う。

 駅につき、迎えのワゴン車に乗り込んだ。運転している従業員の声が、もう東京ではないことを教えてくれた。自分は、自分がしらないところを探し、また自分のことをしらない人々の中で存在させようとした。ぼくは、自分に割り当てられた部屋に入り、道中に読んでいた夏目漱石の坑夫という本を上着のポケットから取り出した。この作家の職業を軽く見ている主人公たちが好きだったのだが、この本はあまりにもリアルであり、陰惨でもあった。ぼくは、最後まで読み通すことが出来るかだけを考えていた。

 タンスに何着かの服を並べ、部屋の中を見回した。自分は、誰からも距離を置こうと決意をしていたが、そもそも人間のぬくもりを求めることを知ってしまった野生から離れた動物がもとにもどれないように、自分の限界もまた知っていた。 
コメント
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