爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-28

2014年05月02日 | 11年目の縦軸
 統計の話をする。

 恋人たちのゴールはどこにあるのだろう。ある面では結婚に。別のルートにまぎれ込めば完璧なる思い出を作成するための失恋に。ひとつやふたつは宝箱に勝手に入ってしまうものだろう。不幸を防ぎきれるほどの鉄壁のふたや扉ではないのだ。他人のことであれば冷静に分析できる。そのための数字の立証性の確かさでもある。もちろん、こころは数字でもないし、冷徹なプログラムでもない。

 当初から結婚という目的に向かうのは、そもそも早計にすぎるだろう。十六才同士の若い男女の話なのだ。そこから永遠という期間を誓うことは、確率としても海でうなぎの稚魚を発見するぐらいと等しいのかもしれない。

 永遠に添い遂げるという魅力(誘惑)を起こすものも、おとぎ話では疑いもなく通じるが、実際の生活内では離婚も少なくない確率で待ち受けることになる。ましてや心変わりと自由意思が蔓延する社会なのだ。だが、確率や統計を抜きにしても、度外視しても、いるひとはなかにはいる。まだ根絶されていない。ケンカもあるだろうが、ケンカする相手を見つけたというのも完全には否定できないほど幸運なことであった。そういう契約下にいなければ毎回、警察や裁判所の厄介にならなければならない。習慣という範囲にとどめるには、もっと矮小なケンカで充分なのだ。相手のこの面だけ変えたいとか、自分のこのことを指摘されるといささか不快を感じる程度の軽量な重さで。これらの小さな衝突の原因となりえるある側のポジティブも才能であれば、反対の耐えられるほどのネガティブさも個々に与えられた才能である。

 永遠も継続もないところに、ぼくはそのときにはいた。同じ意味で終わるということも考えられなかった。この時間の微々たる流れと観念というものがすべてであり、後年、その感覚が外的な要因によって変わったかと問われれば、あまり変わってもいなかったのだが。内的な時間は、生まれながらにして変化を好んでいない。

 だが、拒んでも過去という体積は、蛇口を閉めるのを忘れてしまった風呂の水のように順当に増えていき、そこに自分自身も立ち入れないということには納得できなかった。あれはぼくの宝物であり、所有者はすくなくともぼくと彼女だけのものだったのに。ぼくらだけが浸かれるバスタブである。不注意だったのか、ふと、ふたりの手から離れてしまうことになり、ぼくには愛着があっても、彼女は捨てたぬいぐるみぐらいとしか思っていないこともあり得る。湯の栓は抜かれるが、ぼくの過去はそこに付着している。

 いまのぼくは過去というものとして対面している。当事者ではなくリングからは降りている。その場でダウンされたかもしれないが、戦う相手は彼女ではなかった。そして、最終ラウンドまで行く前に、レフェリーは試合を止めた。もう少し、あの場所に立っていることもできたが、その為の練習さえぼくには分からなかった。誰も訓練の仕方も教えてくれなかったのだから。ガードは甘く、アゴはあまりにも弱かった。ケーキのスポンジぐらいで。

 ぼくは継続中の楽しさだけを追求して書こうとしているが、そろそろ日が傾きはじめていることを知ってしまっている。十六才にして栄光ある失恋者の称号を手にしてしまう。階級をあげることを望んでもいなかった。同じウェイトで同じ女性だけを相手にしたかった。

 まだ終わっていない。終わる気配もない。まだそこにいる。しかし、風船の口をきつくしばっても空気は抜けていく。冬を迎えようとしている日々。ぼくのこころは不思議と暖かい。眠られない夜などもなく、今晩も彼女の家に電話をかける。一度も会ったことのない彼女の両親は、ぼくのことをどう想像しているのだろう。信頼に足る人物か。有象無象にすぎないのか。いつか、ほんとうの気持ちを訊けるのかもしれない。

 ゆるやかな坂道のうえの方からおもちゃの車を放す。そのおもちゃ自身が意志をもつかのように躍動し、多少の小石をとびこえて弾んでいく。止まることなど考えられない。だが、ずっとまっすぐに通じている道など、この狭い国土のなかにあるはずもない。

 ぼくは電話を切る。この時間をじょうずに用いれば会うこともできたのだ。それぐらい近い距離にいる。ある友人は常にそのことを提案した。目の前にあるものをぼくらは愛しやすい。同時に憎みやすいものともなるのだ。

 大人になって愛する者の一点でさえ、許さないこともある。ぼくらは互いに無防備でありながら、気に入らない点など見つけられない。それが十六才という位置の上等さでもあった。

 たくさんの分岐点がでてくる。意志を感じて決める。流されて、どうにか決めてしまった。その間に差異などないのだろう。間違った決断もあるところまですすめば、もうそれは正式な正常な決断と認められるものである。

 ピサの斜塔はきょうも傾いている。傾かなかったらみなどのような名称をこの建造物に当てはめたのだろう。さらにいえば、明日はまっすぐになりたいなどと微塵も望んでもいないのだろう。アンケートの回答をもらったわけでもないが。あれで、そこそこ生きてきてしまったのだ。今更、過去の失敗も蒸し返したくない。それでも、ぼくはまだしている。こうなったぼくのスタートは、どうやらこの辺りにありそうでもある。垂直のピサを目指しながら生きていたのに、おそらくは。

 この結末に目を向ける。

 結末は至った過程より自己主張が強いのだろうか? 我がもの顔で。
コメント
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