爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-29

2014年05月10日 | 11年目の縦軸
16歳-29

 朝、目が覚める。本の次のページを開く。店のシャッターが開く。タイムカードを挿入していまの時刻が刻印される。すべてはスタート、開始というものの集合体だ。

 反対に、本の最後のページ。ポンプを押しても出なくなったシャンプー。水を床に流して掃除している閉店前の魚屋。バイトを終えた時刻を機械で印字する。終わり。ぼくは恋というものの大みそかにいる。もちろん、新年を待ち望んでいるわけでもない。そして、最後の日にいることもぼく自身が知らなかった。

 少ない日々。短い期間。もう少し彼女を喜ばすこともできた。笑わすこともできた。ぼくにとって、もっと深い何かを残すこともできた。

 だが、この視点こそがそもそも間違っているのだ。高速で走る車のレースの最中や、マラソンランナーが必死にもがきながら走っている姿こそが神秘であり、貴さの極限であった。応援はまやかしで、声援もまたむなしいものであった。当事者であること。明日を知らないまま最高の選択をすること。それをぼくは二十二年前の彼に願う。そして、声援する。

 しかし、ひとは必ずという付近で間違った選択に傾きやすく、あえて、わざわざ、不可解な方法や道を選ぶ。誰が悪いわけでもなく、成功者にあふれた社会などどこを見渡してもないのだ。だが、それでも今日のために靴に足を入れて踏み出さなければならない。シャンプーを買い足し、魚も仕入れる。それが日常のもつ優越性だ。

 ぼくはデートの約束をする。彼女はおそらく試験休みという期間に入っているのだろう。ぼくはテストを受けるという状態にはもういない。その疲労をともなう数日からの解放という喜びも同時にない。だから、誰からも試されないというわけではない。バイトの段取りを確認され、いくつかの手順を自分で考え尽さなければならない。だが、表面的に見れば気楽な立場だった。いらない歴史の認識など頭につめこむ必要もない。その後、自分で本を読んで覚える必要はあったが、そこには押し売りではなく自分で望んだがゆえのオピニオンのろ過があった。手垢のつかない認識も思想も決してないことを知ってはいるが、数回、異なったホースを通過させるだけで、自分独自のという誤解を生じさせるのは簡単だった。ぼくは、何を言っているのだろう。愛する少女の記憶を思い出すことに専念すべきなのだ。失われる前に。当人もとっくにいないが、記憶さえも早々と失われる過程に迫られてもいるのだ。

 ぼくはどんな腕時計をしていたのだろう? ひげそりはどのような形状だったのだろう? 細部にこそすべてが宿っている。その細部のほとんどがもう失われている。抵抗する方法は?

 この当時の音楽は残っている。ヒットの如何にかかわらず、またラジオでたくさん耳にしたという頻度の量でもない。音楽に物体はいらない。もし、必要ならばぼくはあの頃のレコード盤を直ぐにでも買い直さなければいけなくなる。ぼくのこころに唄がある。同じ部屋に彼女も残そうと思う。

 思い出というものが、それほど大事ではないと仮定する。思い出を残すという働きがもし脳になかったら、人間はもっと毅然としており、淋しさも考えなくてすむ。だが、歴然とあるのだから仕方がない。だから、思い出をためる。思い出がたくさんあることが幸せなのだという無慈悲な基準ができる。思い出などなくていいのだ。一度、眠れば昨日は葬り去られるようにできていれば、無限の涙もいらない。ぼくの明日という未来は幸福な一日になるのだという予測がこの日の前日のぼくにはあり、数十年経ったぼくには期待は報われたにしろ悲嘆が待ち受けているということも知っている。過去の当事者。

 ぼくはこの日をどうすれば良かったのだろう? このまま眠りつづけることか。眠りこそが唯一、与えられたぼくの自由なのであろうか。

 しかし、ぼくは明日を期待している。同じ街に暮らしているぼくら。観光地でもなく、輝ける産業も麗しいビルもない。ぼくは予定を確認する。スケジュールに追われる日々も、残業続きという忙殺の時期でもない。十代の半ば。愛すべき彼女。その代価。

 苦しみというのはどういうものか。飢餓なのだろうか。ぼくらは親の代の頑張りで多くは経験しないで済む。大げさな圧倒的な戦うべき差別もなかった。ぼくは、この歩みのどの時点で苦しみを自分の体内にカプセルの薬のように口に入れてしまうのだろう。避けることもできるのだ。ぼくは過去に戻り、誰かを好きにならないように自分に諭す。しかし、その場の感情がすべてに優先され、ぼくを支配し、君臨するのだ。それがひとりの若い男性という、ひとつの側の性別をもった人間なのだ。個性を重要視しようとしながら、ぼくは大勢と同じ感情に支配されつづけている。誰かを好きになり、報いという褒美を得て、苦しみという副作用を痛烈に感じる。思い出というものに、それがある日、変化され、絆創膏の内側の傷をめくって見るように、おそるおそる立ち直る過程を喜びもなしに気付く。

 すべては明日だ。ぼくはこの日を迎えるまでぼく自身の本来のなるべき姿を知らない。もちろん、知らないままでも良かった。失恋の歌に無感動のままで、悲劇につながる映画にも無頓着でいる。そうなったぼくは、やはり、ぼく自身であるのだろうか? 疑わしい。ぼくのニセモノ。クローン。親が生んだのは、もっと生身の感情をもったこのぼくなのだろう。きっとだが。