爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

11年目の縦軸 38歳-29

2014年05月15日 | 11年目の縦軸
38歳-29

 ぼくにはすでに運命も哲学もなく、目の前に転がってくるボールをファーストに素早く投げてアウトをひとつ増やすことだけが生きるということと同義語になった。アウトの山が増えても、満足感も達成感も奥底からは感じられない。ただ片付いたという結論があるのみだ。実際のところ、片付くというのはテーブルクロスで大ざっぱにすべてをくるんでしまっただけで、あとで選り分けたりする面倒が残っているのかもしれない。おとぎ話のつづきも当然のこと、どこかにあるのだ。そのページを誰も開かないだけで。続編は刻々と書きつづけられていく。グラウンドに立ってしまえばベンチに戻るということも簡単にはいかない。

 ぼくは仕事をしている。片付けているという感覚に近い。すっきりするという状態になることを望み、念頭とは別に、歯の間にものがはさまってしまったような違和感がときにある。数日、そのままで放置されても誰かが解決する訳でもなく、勝手にはさまっているものが抜け出しているということもなかった。仕事の考え方の違いもある。締め切りというのをスタート地点にするひともいれば、もうその時点では祝杯をあげることを考え、次の解決すべき課題への挑みをはじめているひともいる。これも性格なのだ。相手に合わすことも多分にある。早めの提案を希望する方もいれば、終わり近くまで耳に入れたくないと考えるひともいる。ときには、ひとりで海の砂で城でも作りたいなという気分にもなる。だが、生活の糧を稼ぐ必要もあるのだ。いや、その必要しかないのだ。本音をいえば。

 王子様がお姫様の候補となり得るひとを見初める。そこには甘美があり、残業にはまぎれもない生活があった。ぼくは数年前のひとつの映像を思い出す。職場のビルのとなりに有名なホテルがあった。ホテルというのはリュックを背負ってチェックインして、窮屈な格好でシャワーを浴びるということではない。ときにはひじやひざをぶつけて無様な姿をあわれんで。

 ぼくは残業をしていた。ある催しがあったのだろう。しばしばした目の先には数台の真っ黒な車がつらなり、いかにも高貴なひとを守っているという雰囲気があった。ぼくはクラスというものが歴然とあるのだという確たる証拠を目にする。別に不満があるわけでもない。目を真っ赤にして残業をしなければ(もちろんしても)解決しない日々はぼくの日常の一部になっているという事実に、指摘されてはじめて気づいたようなものだ。その指摘はひとつの映像に基づいていた。手を振ることになれたひと。

 ぼくは地下鉄に乗ったのだろう。その後も、次の日の仕事もまるで覚えていない。上流から下流に水が流れ、自分が堰き止めてしまわないことだけを願っている。これで、誰かの笑顔が獲得できるわけでもなければ、ぼくの仕事で、もしくはぼくと会って感激するひとも皆無だ。これが、三十八才の等身大のぼくのようだった。

 だが、日曜はやってくる。ぼくは絵美と会う。どちらも王子でもなければお姫様でもない。十二単も豪華なドレスも必要ではない。最終的には裸になるのだ。ぼくは、休日のための早めのビールを飲んで、午後のひとときを寝入ってしまった。

 ここにも哲学はない。しかし、絵美との関係を手っ取り早くどうこうする必要もなかった。要求もなにもない。ぼくは夕方の早い時間にシャワーを浴び、毛玉のあるセーターを着た絵美と近くの居酒屋に行った。格好をつけることも、気の利いたメニューを選択することも、ぼくらの目標としてもうない。ただ、食べたいものを選び、言いたいことを言い合い、あくびやげっぷをした。相手の不作法に難癖をつけるがそれも本気ではない。ぼくのあごには休日特有の無精ひげがあった。明日になればまた仕事に追われる。味方というのもいないだろうし、漠然とだが潜在的にみな敵なのだ。かといって、そこまで悲観的になり過ぎるには、日曜の夕べはおだやかで、絵美のそれほど頑張っていない化粧も肌もきれいで輝いていた。

 愛という言葉に一字だけ付け足して愛着とすると、神秘さが奪わられる代わりに親密さがうまれた。運命や哲学を必要としないように愛も、すでに重要なものではなくなってしまった。それより、冷蔵庫に冷たい水が常備されていた方がぼくにとってふさわしかった。入手できない希望ではなく、手元にあるもの。手近な愛すべきものに傾く。

 コップ一杯の水。グラスやジョッキに満たされたビール。その一日だけ大量に摂取すればよいというものではない。日々、適量を摂りいれる。豪華さも、神々しさもない。毎日、無事にこうした些末な出来事に追いかけることが恒常的な幸福であるとも呼べた。何もすることがないこと。どうでもよい内容の会話をする相手がいないこと。避けるべき本質はそのようなことかもしれない。

 ぼくらは店を出る。レンタル店に寄り映画をさがす。ふとした隙にぼくは絵美の体当たりで大人のコーナーに押される。油断していたのかぼくの身体はのれんのようなものをくぐり、驚いたある男性の視線とぶつかる。片手にはこれから借りるであろう薄いパッケージの箱をもっていた。期待ではなく、手近にあるもの。ぼくはしなくてもよかった首だけの会釈をして、そこを抜け出した。絵美はけろっとした顔をして悪びれる様子もまったくなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする