爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 27歳-30

2014年05月18日 | 11年目の縦軸
27歳-30

 ぼくは希美から映画に誘われる。こまっしゃくれた映画。ブルース・ウィルスが裸足で駆けずり回ることもなく、トラック野郎もいない。柴又の風来坊がまた旅に誘われる映画でもない。

 ぼくはこれまでに女性の涙を見て、口を尖らせてふてくされた様子を見て、困った顔をいくつか作る要因となった。歓喜でさえ苦痛のようにゆがむあのときの表情も知っている。経験というのは無限にいくつもの箱を作ることだった。そこに無造作に表情のサンプルを放り込み、あとは漫然と忘れようとした。

 このような仕組みのなかで、映画が難解であってはならない理由などひとつもない。寂寥とした主人公の捉えどころのない心象に付き合わされることもあるのだ。ぼくは断片しか知らないラーメンを作る映画を思い出した。ぼくはどっちかを選ばなければならない。どっちかは二つだが、選択肢ももっと無制限にあった。

 インテリが夢想する漂白された革命とか、自分の恋人は友人と陰で隠れて寝ているとか、ぼくにとってどうでもよいことを主人公は悩みの種としていた。ぼくは、爽快になりたかった。早く、この耐えがたい地獄が終わり、ぬるくてもよいのでビールでも口に入れたかった。希美は退屈でもなさそうである。せめて代金分は楽しもうという女性特有の気持ちがあるらしかった。

 しかし、まったく見どころのない映画なども皆無だ。ぼくは最後のほうに流れた理知的な音色のトランペットにこころ打たれていた。悪くなかった。映像もなくなりエンド・ロールで曲目と演奏者を確認する。
「やっぱり」とぼくは言う。

 それまで退屈そうにしていたぼくが、映像もなくなって急に話したので希美は戸惑ったような様子をした。

「なにが、やっぱりなの?」
「あの音楽。トランペット」
「ラッパ」

 その響きはぼくに夕暮れ時の豆腐屋のもの哀しい音色を思い出させた。あのような売り方をしていたのは一体、いつぐらいまでだったのだろう。そうするためには、家に主婦たちがいなければならない。もう、みな外で働くようになってきたのだ。帰りにスーパーで買えた方が手っ取り早い。世の中は流通でもあるのだ。映画も同じ産業であり、仕組みだった。だが、それに引き換えても退屈だった。

 ぼくはぬるいビールも飲まずにすむ。まだ日は高く、椅子も高いスツールだった。柱も見当たらない大きな窓があり、ぼくらはその窓際のカウンターに座り、外を眺めていた。ひとりひとりにも、先ほどの映画の主人公のように知られていない殺伐とした気持ちがあるのか考えようとした。だが、少しのアルコールでぼくは愉快な気分になり、ひとのことなどどうでもよくなってしまった。

 すべてを置き去りにしなかった。ぼくの頭にはまだあの音楽が鳴っていた。ぼくは理解できるようになっていた。もし、あの十年以上も前の自分だったら、きっとこころに何も残していないだろう。もちろん、交際相手がさっきの映画を選ぶこともなかった。ぼくは、イングマール・ベルイマンを知り、難解さをすべて避けようとしたこともない。しかし、デートで見るような類いのものもあるだろうと提案したかったのかもしれない。でも、ビールの喉を通過する快適さは完全には奪われない。

 ぼくらは渋谷の町を歩く。いくつも近道を覚えていて、でも、急いでいるわけでもないので、歩き方はゆっくりとしている。地下鉄の駅を発車すると車両いったん空中に浮かぶ。その光景の不思議さをもう格別にめずらしいとも思わなくなっている。すれちがうひとは同じような服を着ていた。流行と個性の間を見つけるのもうまい女性もいた。デザインとサイズがあり、販売のテクニックと財布のひもの兼ね合いがあった。その吹き溜まりが渋谷というところのようだった。

 ぼくは希美が洋服と友だちへのプレゼントを選んでいる間、地下の大型の書店で立ち読みすることにした。ぼくは彼女の熱中とおおよその費やす時間を把握するようになっていた。ぼくは新刊を手にして、最初の数行を試しに読む。試着と同じだ。自分で選ぶ服と、似合うとすすめられる服は違う。自分で読んで楽しかった本と、気に入ると思うよと言われてすすめられる本も異なっている。でも、誰かに新しいものを教えてもらわない限り、自分の枠も興味も段々と先細りになってしまいそうな予感があった。ぼくは目ぼしいものが見つからないので、希美がいそうなフロアを探した。たくさんの女性がいる。ぼくがもし選ぶと仮定して、さらに、友人から気が合いそうに思うよ、と紹介されて一致する確率を想像した。しかし、ぼくはもう新しいものを必要としていなかったし、欲していなかった。気まぐれになることもない。忠実なる番犬も、あの裕福そうな別の飼い主に飼われたいなと浮気ごころを出すこともないだろう。首の紐にでさえ文句を言わないのだ。退屈さもそれほど認識していないのだ。たまの散歩とたまに噛む硬い骨があれば満足なのだ。

 希美の背中が見える。服が並んでいるレールの上でハンガーにかかっている服を左右にすべらせている。そして、一着をとって自分の目の前にひろげた。数秒して、どういう気分なのか分からないが気に入らなかったのかまた元にもどした。それから、もう一巡して同じ服を取った。そこで、にこやかな店員に声をかけ、試着室に消えた。手持無沙汰な店員はぼくを発見する。試着室にいる女性とこの適度な距離を保っているぼくの関係を思案するような表情になった。彼女もさっきの映画を見たら、あのにこやかさも簡単に消えるだろうなと想像する。そして、ぼくは段々とそちらに足を向けた。試着室から希美が顔を出す。店員のずっと後方にいるぼくに気付く。カーテンをもっと開き、ぼくにも新しい衣装を見せようとした。

 カーテンはもう一度、閉まった。ぼくは彼女が選んだ服のそばの値段を見るともなく見た。これではなく、あれだったのだろう。希美は不特定多数のものからひとつを選ぶ。それが、不思議とぼくでもあった。退屈な映画に耐えられる彼女の選びそうなものでもあった。