名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

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江戸時代の「赤帽」?

2013年10月20日 | いにしえから学ぶ

 10/19(705回)

 今週はヒマでした。・・・・・暇にまかせて先回の続きです。

 江戸時代の運送を担ったのは宿駅制度だ。街道の宿場には問屋場・宿駅を置いた。これは「お上」の物資を運送するためのシステムとしてつくられた。そこには人足と馬が常備させられた。原則次の宿駅までの運送だ。先回のブログでいえば、中津川宿からは落合か大井宿までだ。そこで荷を付け替えて運送は終わる。
 この公儀の運送費用は問屋もちです。その代わり?税金の一部が減免される。また問屋場を旅人の宿にしたり、民間の運送等で儲ける。
 民間の運送も原則次の宿場までだ。運送賃のトラブルが多かったんでしょう、運賃に関し1711年に定めがでた。その高札が先回の写真です。
 急ぎの荷もあった。一駅ごとに荷を付け替えるのは面倒だし、損傷もある。さらにその都度の手数料もかかる。ならば目的地まで極力通しで運ぶ便を・・・ということです。江戸時代の「赤帽」でしょうか。
 その名を「付け通し」「通し馬」という。運賃は一里20文~ぐらいです。時代により5割増しになったこともあり・・・です。
 この時代はどうも物流を潤滑に・・・という考えはなかったようだ。東海道では、大井川や安部川などには橋を作らせなかった。軍事的の考えが優先している。しかし物流は欠かせない。大量運送は船便でした。千石船が日本をグルリと走っていた。

 3百年前の時代にも「赤帽」的運送屋があり、街道を往還してたんですね。


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