果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

創造こそ我が人生

2011-10-18 17:42:58 | 日記・エッセイ・コラム
 
創造こそ我が人生           

                   本多碩峯(果物食品加工アドバイザー)76歳
                   この記事は平成13年9月1日発行の「観音たより」より転載

 

創造こそわが人生

 

 わが宇宙に地・水・火・風・空が育まれ、一切の生命があらわれ、そして進化して六大「地・水・火・風・空・識」が育まれて、人間がいろいろなことをして今日に至っております。この事は実は非常に大きな創造力を発現して来ていることを前号で申し上げましたが、昨今、日産自動車のカルコス・ゴーン社長の改革、小泉首相の改革という言葉が新鮮なものとして私たちの心に刻まれています。この改革も創造力そのものであります。何物にも妨げるものの無い本当の自由が存在して本当の創造力が生まれます。そうあることを祈念する。

 

 ある記者がカルコス・ゴーン社長は『今一番困っていることは何ですか』と問いかけたところ『それは言葉です。日本語です。日本語はたいへん難しいので、仲々覚えられません』と笑いながらの返答であった。彼は、コミュニケーションを最も大事だと思っている。心と心が通じ合えば、どんな難しい大きな問題でも解決できるのだと言っています。 

  

 創造力はアナログ思考

 

 今や人間の生活の根源を司る「衣・食・住」の科学の進歩に驚きすら感じます。日本人の平均寿命が世界一になったとか。これらの事を手放しで喜べないことも事実であり

 

ます。これらの原因はマイクロコンピューターの飛躍的な開発も一つであります。業界は益々高度な投資が行われる事でしょう。

 

 ところで、誤解してはならない重要な事は、これらのコンピューターの発達によって、このコンピューターが新技術を発見するとか、次ぎから次ぎへ新しいアイディアが生ま

 

れるとか、理論の世界で次々と新学説が見出されるなどとは期待できないわけであります。

 

 出来ない理由の一番大きいのは、図形認識力、パターン認識が人間の知能に比べお話にならない位コンピューターは貧弱であるということです。

 

 私たちが科学史、技術史を振り返って人間の頭脳活動というものの決定的重要性を認めないわけにゆきません。史実による偉大な着想というようなものが生まれるときには、諺、比喩、あるいはアナロジー(類推)という言葉で呼ばれている思考が重大な役割を果たしております。

 

 つまり一見漠然とした情報処理としての、図形認識力が中心になっているのです。

 

 私自身、造船所時代の防衛庁水中兵器の半導体回路を応用した近代兵器としての開発に従事した経験、初期の電子ばかりの開発の経験からその開発・研究過程で、最初にディテイル(詳細)から入るのでなく、まず推測、推論という形をとるのですが、これが比喩、形容的即ち人間知能によるパターン認識です。

 

 日本文化の俳句、短歌、川柳等がアナロジーであり人間知能のパターン認識を象徴するそのものです。

 

 この事がコンピューターに無い人間だけが育んでいる最も尊い創造性であります。

 

 昨今の社会秩序の欠如を反省するに私たちの先人が生み出し育んできた俳句や短歌や書道や茶道、華道、精神面では柔道等、 優れた思考が生かされない環境が創り出していると考えるのです。

 

柔道などはオリンピック種目に採用されて以来、本来の「道」の精神の習得が重んじられない現状をさびしく思う一人です。

 

 特に剣道の「剣禅一致・剣禅一如」が正にそうであります。不動明王の左手にクサリ、右手に剣をもった姿、決して生身の身体を縛るものでなく、生身の身体を傷をつける剣でありません。誰でも持った煩悩を縛り、剣で刺す姿が不動明王です。そのような精神的パターン認識が剣道の醍醐味だと思います。

 

 この様な人間の優れた感情状態の表現が大切です。たとえば「春風が頬をなぜる」というような言葉を一つをとってみても、これを文字通りに解釈しますと、大変おかしいことがわかります。風が頬っぺをなぜるというようなことはどう考えても精神分裂症的な発想です。

 

 しかし、よく考えますと、表現として、形容として、比喩としてこれは大変な意味があるのです。古来、人に対して強い説得力をもたれてきた人々は、さかんにこの比喩を使っています。仏教界の僧侶をはじめ、カトリックの神父さんでも、能力の高い政治家、能力の高い企業経営者も、およそ人々に説得性の高い話をしなければならない条件下にある人々は必ずといっていいほど比喩を使っていることを再認識しましょう。今日の生活の周辺が携帯電話、パソコン、家電等のデジタルの恩恵に授かるあまり、日常生活に比喩的発想やアナログ思考を幾らでも利用できる事を忘れている。一九五五年代に数学者の岡 潔先生(当和歌山県橋本市出身)が普段の脳の訓練にテレビの漫画が最も優れていると語っていた事を思い出す。遊びの世界にも重大な創造的発想に関連をもった原理が含まれているのかもしれない。

 

 

  お釈迦さまの創造

 

 お釈迦さまは、今から二千五百七十年前、インドのヒマラヤの南麓ガピラ城に一国の皇太子としてお生まれになりました。

 

 この世の中に人間としてお生まれになると、すぐさま六歩半お歩きになって「天上天下唯我独尊」とお叫びになったと伝えられる。

 

 人間が生まれてすぐこんな言葉を叫ぶはずが無い。先ほど学びましたように比喩として重要な意味があるのです。

 

 六歩歩くということは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻の迷いの世界を半歩踏み出されて、人間苦から脱皮していることを物語っているのです。

 

誤った考えとして「天にも地にも我れ独り尊し」を自分ほど、えらい者はいないんだ。自分こそ世の中を統括する指導者であると。これは誤りです。

 

 実は天上天下とは自分の上、自分の下、すなわち全宇宙ということです。全宇宙のいのちと恵みを一身に受けて、只今ひとりの人間として生まれさせていただいた嬉しさ、素晴らしさ、尊さをお叫びになったのです。

 

 人間として生まれてこそ、世のために働ける。よくぞ人間に生まれて来たものだと、天地宇宙の生命に感謝のお言葉を放ったのです。

 

 これは何もお釈迦さま独りのことを言ったのではない。この世の中に一人ひとり、人間としての身体と生命を持って生まれてくる私たち人間すべて、お釈迦さまと同じ唯我独尊の尊い人間であり、仏の子であることを表しています。

 

 

  初心に帰る

 

 関西で最も早くマイクロコンピューターのシステム機器の製作会社を創立上場準、備段階に入って倒産、微力ながら希望と夢に築いてきた無くしたくない、名誉、ヒト・モノ・カネの一切を失い、その上、人様に迷惑を残して、半年後に懺悔と感謝の四国八十八ヶ所徒歩巡拝に出発する。

 

 十一番札所焼山寺の遍路庵で宿とした時、翌朝、眼下に見える朝日を礼拝しながら走馬灯の如く幼少の頃を涙して思いにふけり、感謝と懺悔の中に四国遍路の素晴らしさに感動、「天上天下唯我独尊」と帰りくる山彦に耳を澄まして心に頂き山を下りる。

 

   合掌    

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                  参与770001-4228(本多碩峯)

 

 


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