Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

Wk 46

2006-11-21 | Japan
月曜日。「地域環境管理論」の講義(4週目)。欧米におけるアーバニズムとランドスケープの関係(その2)。〈環境〉に接続されるランドスケープ、経済活動としてのランドスケープ、ランドスケープ・アーバニズムとは何か?について解説。特に欧州のランドスケープシーンを見るにつけよく感じることなのだが、日本でのランドスケープのコンテクストは依然「自然保護・保全」のレベルに止まっているように感じられてならない。しかし、欧州ではそんなこと前提であって、その先に「経済の活性化」が目論まれていることが多い。日本だと、「ランドスケープで経済の活性化? 逆でしょ!」てな感じだが、欧州はその点ある意味で露骨である。ランドスケープへの投資は長い目で見て地域経済に跳ね返ってくる、と認識されている。例えばランドスケープの改善によって、居住人口が増える、有力企業が立地する、自治体の税収が増える、資産価値が上がる等々、これぞ都市・地域再生である。行政のレポートをみてもランドスケープのポリシーとしてこのようなことがちゃんと謳われている。こういうのを見るにつけ、日本ではランドスケープは立ち位置としてはまだまだ「アンチ経済」の部類だなぁと思うわけである。生物多様性じゃあ(もちろんそれも大事だが)メシは食えない。

午後は「環境デザイン実習I」の6週目。昨年に引き続き、「Sitting on the UK」と題してスライドショウを行う。撮りためた膨大なイギリスの写真コレクション(未だに整理が追いついていない)の中から、「座る」をモチーフに50枚ほどの写真をピックアップ、披露した。ベンチが成立する文化的コード=イギリスの物乞いは絶対に公共のベンチに腰掛けない。それどころか公園ではついぞ一度たりとも物乞いを見かけることはなかった。イギリスの公園とはそのような文化装置なのである(意味わかりますか)。日本でこんなこと公言したらたちまち人権保護団体からクレームが来る。

火曜日。「都市公園の〈保存〉」と題する小文が「公園緑地」誌都市公園法施行50周年特集号(Vol.67 No.4, 2006)に掲載されました。公園法50周年にうかれている場合ではないこと(人口減少社会において土地を自然に帰すための都市公園の可能性)、歴史的都市公園の登録・保存制度の必要性について指摘。学生さんからLDSE2006(関東学生ランドスケープデザイン作品展2006)のチラシとインビテーション。会場はなんとBankART Studio NYK。いいとことれたなぁ。おまけにタカハシさん(マスターピース代表)とヤマウチさん(東風意匠計画代表)がゲストクリティック。昨年の初回の同イベントにゲストとして呼んでいただいたことを思い出す。継続できてなにより。関東のラ系学生作品展はどこぞやのように「やらせ」ではなく、学生主導であることを僕は高く評価している。

水曜日。次回日本造園学会企画委員会の準備で、海外におけるランドスケープの資格教育の認証システムについてリサーチをかける。それにしても今回の学校教育法の改正に伴って導入された大学機関別認証評価制度というのは矛盾に満ちあふれている。「評価」は手段のはずだが日本の場合、どうも目的化しているきらいがある。設置審査(事前評価)と認証評価(事後評価)の関係も非常に曖昧だ。さらに、大学や部局の独自性や個性が評価されにくい状況にある。ロースクールの認証評価機関を除き、個別の「モノサシ」が全く用意されていないからだ。差しあたり日本の課題は、米国ASLA、英国LIのようなランドスケープ・アーキテクト資格教育の認証機関(分野別適格認定)の存在とその制度化だろう。午後、「環境デザイン実習V」(5週目)。新川耕地の景観資源・景観構造のスタディ。

木曜日。研究生のミゾグイさんと四方山話(いや研究打合せ)。故ダン・カイリー氏の秀作「North Carolina National Bank Plaza」(フロリダ州タンパ)を題材に、名作あるいはマスターピースと評価された作品の劣化・改修とその要因について検証した興味深いエッセイ「The Life and Death of a Masterpiece」(Landscape Architecture, Vol.94, No.4, 2004, ASLA)について意見交換。このエッセイでは、維持管理の方法や主体についてあいまいなまま供用が開始されてしまった点を指摘しつつも、カイリーのデザイン自体にも「問題」があったことを必ずしも否定しない。植栽密度や植栽基盤造成上の技術的な欠陥等々である。

マスターピースと称された作品あるいは各種学会賞等の受賞作品の現在(いま)をモニタリングしておくことは重要なことである。オリジナルプランが存続している場合とその理由、マイナーチェンジが加えられた理由、大幅に改修されてしまった理由等々。さらには、改修されたのは、維持管理に問題があったのか、デザインに問題があったのか、それ以外の不可抗力的な要因によるのか等々。あるいは、オリジナルプランの存続は偶然の産物なのか、意図的な結果なのか。

「(偶然)残ったデザインとその理由」を知りたいわけではなく、「(意図的に)残すべきデザイン」とはどのようなデザインであり、「残していくためのてだてやしくみ」を知りたいのだ。当然、その裏返しとして、ぶっ壊されやすいデザイン(ぶっ壊すべき拙いデザインも含めて)とはどのようなものか(あるいはどのようなプロセスを経てそれが決定されるのか/されるべきか)、その一般的傾向をつかみたい。この辺が実に曖昧なまま、残すべきランドスケープがぶっ壊され、その一方ですぐにぶっ壊されそうなランドスケープが生産され続けているような気がする。

金曜日。修論ゼミ。留学生が関東大震災の東京市震災復興三大公園の変遷を調べている。それにしてもすごい変わりようである。時代の要求に応じて施設(箱物を含む)が充填され、オリジナルプランの構成・構造がズタズタに改変されていくさまが手に取るように理解できる。僕にはどう見てもオリジナルプランのデザインのほうが優れているように見えるのだが、むろん時代の要求というものは無視できない。とは言え、問題があるなと思うのは、改修にあたってオリジナルプランというものをどう位置づけるか、残すべきところはどこでその理由は何か、あるいは改修すべきところはどこでその理由は何か、こうした議論が図面を見る限りほとんど理解不能である(もちろん全くなかったとは思わないが)。行き当たりばったりのデタラメそのものである。思うに、人口が減少し始め、様々な施設機能が公園以外の施設に期待できるようになった今日、公園改修の選択肢の一つとして優れたオリジナルプランの「復元」ということを真剣に考えてもよいのではないかと個人的には思っている。

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