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カラヤン批判の構図

2007-12-05 | Media
例えば、カラヤンの第9は高校生の時にデジタル録音(カラヤン最晩年の80年代録音)のLPを買って、その時はぜんぜんダメだと思った記憶がある。当時、バンスタ/ニューヨークフィルとフルヴェンのバイロイト盤を既に聴いていたはずだが、大方の評判よろしく、フルヴェンがやはりいいいなと思っていたような。。。以降、大学時代を通じてクラシックからは遠ざかっていたわけだけれど、最近、ホントにごく最近のことだが、フルヴェンが妙に重苦しく感じられてきた。決定的だったのは、パーヴォ・ヤルヴィ/カンマーフィルのベト3・ベト4を聴いてから。それでも第9についてはいまでもバンスタ/ウィーンフィルがベストだと思っているけれど、問題はカラヤンである。

なぜか最近妙にカラヤンのベートーヴェンに惹かれる。昔はぜんぜんだったのに。なぜなんだろうか。カラヤンの演奏についてはかねてより評価が分かれていることは知っていたけれど、最近思うのは、カラヤン批判の構図というのはいってみれば「モダニズム批判」そのものものなんじゃないかと。それもメチャメチャ紋切り型の。やれ精神性に欠ける、人工的、機能的に過ぎる云々(←精神性って何だ?)。でもカラヤンは意図的にそういう演奏をしたわけでしょ。確信犯。それが彼の芸術なんだ。機能的にバラバラに解体したあと、自由な解釈でまとめあげる(表現する)。それでいて見せ(聴かせ)どころはちゃんと心得ている。ローカリティよりもユニバーサリティ。まさにモダニスト。

で、僕の中では、今をときめくヤルヴィのベートーヴェンとカラヤンのそれはものすごくシンクロしているの。音色や演奏スタイルは全く違うけれど、やりたかったことは結局同じなんじゃないかと。機能的、即物的な演奏の中に個性が光る解釈の斬新さといいましょうか。。。ただ、ヤルヴィも一部採用しているピリオド・アプローチについては個人的には好きになれないなぁ。あれって、「方法」であって「解釈」ではないでしょ。だから、同時代性が感じられないし、つまりはあれだけでは芸術にはなりえないんじゃないかと。ピリオド・アプローチを標榜する連中って、なんかエコロジストと重なってくるんだよなぁ。それもけっこうディープな方々。

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