Sketch of the Day

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“アーバニズム”とどう向き合うか? その9 生存のランドスケープ【分科会】

2011-11-13 | Presentations
平成23年度日本造園学会全国大会分科会

目的:
 この分科会では、アーバニズム―広く都市的な事態と定義している-に対して、ランドスケープのデザインがいかなる視点や方法を提示しうるかを、様々なトピックをあげて議論してきた。その過程でみえてきたことは、1)デザインが求められる前提としてのアーバニズムの性質自体に変化が兆していること。これは、昨今の、人口減少社会の到来とそれに伴う逆都市化や都市縮退と呼ばれる状況に典型的にみてとれる。このような事態を受けて、2)デザインの視点や方法もまた多様化、場合によっては変化を迫られている。例えば、ブラウンフィールドとそのメディエーション、地域社会の持続性を支えるプロセスデザイン等々、デザインの対象や役割が拡大している状況が認められる。
 そこへ来て今回、我々が前提としてきたアーバニズムの考え方そのものを問い質すような出来事が発生した。東日本大震災とそれに伴う津波災害である。この災害により、広大な土地と多くの人命が失われ、あるいは存続の危機に晒された。近代のアーバニズムが、生業の効率性や生活の快適性を支える一方で、大きな自然災害から人々の生存を保障するものでは必ずしもないという現実が露となった。このような事態を受け、我々の分科会では、生活や生業に最適化されるだけではなく、人々の生存をも保障しうる地域や社会のあり方について議論することを目的とした。

企画責任者:
 木下 剛(千葉大学大学院園芸学研究科)
 高橋靖一諸(株式会社 L.P.D.)
 石川 初(株式会社 ランドスケープデザイン)

主な参加者と役割:
1.話題提供
 アーバニズムと生存:木下 剛(千葉大学大学院園芸学研究科)
 前提としての土地を如何に相対化するか:中谷礼仁(早稲田大学創造理工学部)
 際(キワ)のランドスケープデザイン:高橋靖一諸(株式会社L.P.D.)
 生存の環境単位とランドスケープ:石川 初(株式会社ランドスケープデザイン)
2.自由討議
 話題提供者および会場参加者による討論


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アーバニズムと生存

木下 剛(千葉大学大学院園芸学研究科)

1.近代の都市づくりと防災
 今回の大震災は、すでに多方面で指摘されているように、人々が築き上げてきた都市的な生活や生業のあり方、都市や地域の空間的なあり方について、大きな見直しを迫るものである。この国が経験した数々の大災害から我々が引き出しうる1つの教訓は、確かな技術と科学に支えられているかにみえた近代都市が必ずしも我々の生命を保障するものではなかったという単純な事実である。災害国ニッポンでは激甚災害が起こるたびにこのことの認識を新たにし、それに応える都市づくりの方法を模索してきたはずである。ところが、大災害の発生スパンが超長期的なこともあり、喉元過ぎると、ヒトの生命を支持する(生存)という都市づくりの大前提は、日々の生活の快適性や生業の効率性に最適化するという大命題の下、記憶の彼方に追いやられてしまう。
 今回の大震災が、近代日本が経験した大震災、例えば阪神淡路大震災や関東大震災等と比較して特異なのは、火災ではなく津波という自然現象による大量の人命喪失と超広域にわたる生活・生業空間の破壊である。むろんこれまでにも三陸地方は何度も津波に襲われた。しかし、今回は近代化を経験した市街地、集落が大規模な自然の脅威にさらされ、大きな被害を受けたという点で従来のそれとは異なる。近代の都市づくりの理論と実践においては、自然災害(とそれに起因する二次的な災害)から生命を守る、という問題意識は必ずしも十分ではなかったといえまいか。
 防火はそのような試みの数少ない事例の一つといえ、古くから都市づくりの重要な課題であった。近代においては耐火建築の促進や広幅員の街路・緑地帯をもって延焼遮断帯とし、火災の延焼を食い止めるという手法が開発された。我が国では緑地の防災機能を重視し、帯状の緑地によって市街地を適度に分節化し延焼を食い止めるような形態が理想的とされている。また、洪水・高潮対策についてはオランダの防潮堤と排水・灌漑システムが著名であり、日本も堤防による治水に力を注いできた。一方、近年の大型台風や突発的豪雨による洪水対策については、北米大陸でのストームウォーターマネージメントの取り組みや欧州での河川の自然再生(遊水機能の向上)、日本での総合治水対策など、ハードなインフラによらないソフトな技術による取り組みも目立ってきた。
 とはいえ、こうした取り組みは、今回の大震災にともなう津波の被害のような、都市そのものの存続を問われるというような事態に対して十全に応えるものとは言い難い。今後の都市づくりにおいては、人間の生存に最適化した都市づくりのあり方も考えていく必要があるだろう。ここでいう「生存」とは、激甚な自然災害等に際して、生き物としてのヒトが生命を維持することである。近年では「安全・安心」というテーマの下に議論されているが、これを機にもっと積極的に取り組む必要性を感じている。

2.生存を支える条件
 「生存」を支える条件を考えるには、登山やキャンプのアナロジーが有効だろう。我々はキャンプをする時、河川の増水や雪崩・落石の危険性のあるところを意識的に避ける。山小屋は当然そのようなリスクの低い場所に立地選定されている(立地とシェルター)。また、食料と飲料水、調理のための燃料等は、登山中の入手が困難な場合、当然持参するだろう(フード/エネルギー)。安全な行程確保のための装備や通信機器も欠かせない(交通・通信)。また、安全登山への強い決意や行動規範等々、目に見えない要素も重要となる。
 都市生活でも基本は同じことなのだが、都市ではこうした手段は自ら確保するまでもなく自明の存在であるため、改めて意識されにくい。登山やキャンプでは、行為や生活の快適性よりも、安全性や生命を維持するという命題にあらゆる装備や行動が最適化されている。一方で、都市・集落の場合、こうした手段は生存を支えるというよりも生活の快適性・安定性、生業の効率性に最適化されるという方向に向かう。その結果、生き物としてのヒトが本能的に備えているはずの、「生命」そのものを脅かすハザードとリスクへのセンス、言い換えるなら「生存感覚」を鈍化させてきてしまったのではないか。このような点からも、ヒトの生存を支え、生存感覚を常に鋭敏にさせるような都市づくりが求められるのだと思う。
 近代の都市づくりでは、日頃の生活に最適化された環境単位(例えば街区、住区、地区、都市、地域など)、効率的な生業に最適化されたインフラ(交通、物流、エネルギー、通信)のあり方を考えてきた。そこでは、アクティビティの内容に応じて要求される環境単位の規模は多段階のスケールをとりうる。こうした単位設定、スケール設定が生存という命題をも支持しうるか否かを、上述した生存手段(立地、シェルター、フード、エネルギー、交通、通信など)に照らして再吟味する必要があるだろう。
 また、都市のパフォーマンスが生存ではなく生活・生業に最適化されてしまいがちな傾向が、大地震や大津波といった自然現象、自然災害の発生頻度の低さに起因していることはすでに述べた。そこで、生存に最適化された都市は、時間的スケールにおいても多段階に対応しうること、例えば、今を生きる人間の一生から何世代にもわたる子孫の生存をも保障するものでなければならない。これについては、都市の空間的なあり様にも増して、個々人や家族、地域社会のそれぞれのスケールにおいて災害の記憶を風化させないソフトなしくみ(教育と学習など)がむしろ大事になってくるだろう。
 ハザードマップは、平時においても災害リスクの可能性を意識化させる有効な手段であるが、具体的なリスク回避の方法とともに理解しないと意味をなさない。一方で、欧米諸国の中には、洪水などのハザード/リスクが高い土地には自己責任において居住する(日常の生活インフラや非常時のレスキューを行政が必ずしも保障しない)、という認識と制度が浸透している地域もあり、こうした見方も検討の俎上に乗せてよいだろう。

3.戦略的エコロジーの構築に向けて
 以上、生存に最適化された都市づくりに対して主に空間的、社会的側面より接近する考え方を提示した。その他のアプローチ、例えば生態学の支流である人類生態学では、人間も主要な生態学的要因ととらえ、人間の生息や生業が環境に与える影響について解明する。この、人類生態学も含めて、生態学は一般に生物と環境の相互作用に着目するものの、生物の一員たる人間が環境から受ける影響について大きな関心を抱くことはない。とりわけ、環境のインパクトによって人間の生命が脅かされるような事態は生態学が扱う事象の埒外に置かれているだろう。ランドスケープエコロジーは、人間活動と環境の関係について空間的に解明しようとした新しい流れであるが、人間活動が環境に与える影響という問題意識のベクトルは従来の生態学と同様である。都市生態学も、社会地域を生態学の対象とした点で新規ではあったが、人間→環境という問題把握の基本的方向はやはり同様である。
 マックハーグは、その著書「デザイン・ウィズ・ネイチャー」の中で、都市活動や都市施設の立地選定において人間が環境に与える負荷を最小限とする計画方法論を提示したが、そうすることが人間の生息や生存にとってもセキュアである(環境→人間)とする見方で本書を再評価することもできるのではないか。ここで、環境→人間という問題把握の方向に着目するのは、今回の大震災と大津波が未だそのようなとらえ方の有用性を我々に訴えかけているからである。津波という自然現象からヒトの生存を保障するハビタット=都市・集落はどのようなところにどうあるべきか。
 従来、環境が人間に与える負の影響については、土木工学的な手法、例えば高規格堤防などによってそれを排除する、というような対立的方策がとられてきた。ところが今回の大災害はそのようなハードな手法が常に有効ではないことを実証した。そこで、環境が人間に与える負の影響を排除するだけでなく、ある程度許容することで、人間と環境相互の動的平衡状態を導くという手法も検討してみる余地があろう。人間が環境に与える影響のみならず、環境が人間に与えるインパクトをも併せ考えることによって、環境の持続可能性(生存を含む)をより高めることにつながるのではないだろうか。
 最後に、西欧起源の「持続(可能)性概念」についても検討を加えておく必要があるだろう。この概念は、環境面においては、資源の枯渇を回避し生態系サービスを継続的に享受できること、社会面においては、地域社会が人口を安定的に維持し存続できること、経済面においては、生業が維持され新たな雇用の創出も期待できることなど、広範な内容をもつ。しかしながら、そこには、都市空間や地域社会そのものが外的なインパクトにより壊滅または消失する(持続性が断たれる)というようなシナリオは想定されていない。災害国ニッポンで都市の持続可能性を問題とする場合、「生存概念の欠落」を補い、具体的な対策を講じるというラディカルな姿勢が求められると思う。生活や生業の持続性のみならず、生存をも射程に入れた持続可能な都市づくりの手法を構築することは、ニッポン以外の災害リスクの高い国々や地域にとっても有意義であろう。