ところで、「五音相通」、「五音連声」とはどういうことでしょうか。二つの説がありますが、ここでは、「相通」というのは、たとえば「山遠き霞」の、遠きの「き」と霞の「か」のKのように、同一子音で続くものをいい、「連声」は、「空になき日影の山」の、なきの「き」と日影の「ひ」のiのように、同一母音で連続する修辞をいうようです。
同じ音を重ねると、それらが響き合って、独特の効果がもたらされることがあります。とくに、S音、K音などは、耳で聞いて非常に心地よい。たとえば次の歌。
多摩川にさらす手作りさらさらに
なにぞこの児のここだかなしき 『万葉集』 東歌
これは高校の教科書にも載っていて、『万葉集』のなかでも、なかなか人気のある歌です。この歌は、税の一つである「調」として差し出す布を織ったり、それを晒(さら)す際の労働歌として成立したもので、音調だけを主とする民謡であって、決して秀歌とはいえません。それにもかかわらず、人気があるのはなぜでしょうか。
声に出してみればすぐわかりますが、S音とK音の響きがまことに快いのです。上の句の「さらす」、「さらさら」からくるS音の爽やかですがすがしい響き。そして、下の句の「この児」、「ここだ」、「かなしき」と、小刻みに繰り返されるK音は、弾むようなテンポと力強さとを、一首に与えています。
『無名草子』の一節に、「歌をも詠み、詩をも作りて」とありますが、和歌はもともと詠ずるもの、つまり、声に出して歌うものなのです。歌はまず耳から入り、そして口ずさむものでした。
それが、活字文化が盛んな現代では、和歌や俳句は、まず目から入ってきて、ついで頭へいって、意味を左脳で考え、理解がなされます。目から頭へ、という流れはどうしても、「リズム」や「響き」ということを忘れがちです。
リズムや響きのよい和歌や俳句は、耳から聞いたときに快く、また口ずさんだときに心地よいものです。俳句を作る場合、これらの大切さを忘れずに意識しておきたいものです。
『ささめごと』の、この「昔と中ごろの連歌」の部分を読むたびに、心敬さんの声が聞こえてきます……
俳句は、自然と自分とのかかわりを嘯(うそぶ)くもの。季語の心、つまり、
季感を忘れて、ただいたずらに美辞麗句を並べ立てたり、しゃれた表現を
しようなどと考えてはだめなの。季語は飾り物ではないのじゃ。季語のそな
え持っている季感に、おのれ自身の心を通わせ、そして心を季感に沈潜し、
おのれの周辺を見渡すのだ。
そうして、心にうったえてくるものや、おのれの実感を季語と結びつけ、具
体的に表現するの。観念語を使ったり、こけおどし的な言葉を使うと、句が
死んでしまうの。実感として季節を感じ、一字一句をおろそかにせず、簡潔
に表現することが大切なのじゃ。
つまりだな、俳句は、自分の心情や感動を具体的なもの〈季語〉に託して、
うたいあげるものなの。
連歌では、「捨てどころ」が急所であったが、俳句では、「省略・単純化」
が命なの。ただ、捨てて、捨てて、すべて切り捨てた結果としての、単純で
なければいけないんだな。
「言いおおせて何かある」。省略がきけばきくほど、読む者の想像が広が
ってくるのじゃよ。だが、省略された部分が、ほのかに思い浮かぶような省
略でなければならない。ここが難しいのだよ。
もうひとつ教えてあげよう。「俳句は愛情」。これを忘れてはだめだよ。こ
の世に存在するすべてのものに、こまやかな愛情をもって接すること。そし
て何よりも、自分自身に対しても愛情を持つことだ。
これらが名句の特色、つまりは、俳句を作るコツなのじゃよ。
大寒の我が身出でゆけ癌三つ 季 己
同じ音を重ねると、それらが響き合って、独特の効果がもたらされることがあります。とくに、S音、K音などは、耳で聞いて非常に心地よい。たとえば次の歌。
多摩川にさらす手作りさらさらに
なにぞこの児のここだかなしき 『万葉集』 東歌
これは高校の教科書にも載っていて、『万葉集』のなかでも、なかなか人気のある歌です。この歌は、税の一つである「調」として差し出す布を織ったり、それを晒(さら)す際の労働歌として成立したもので、音調だけを主とする民謡であって、決して秀歌とはいえません。それにもかかわらず、人気があるのはなぜでしょうか。
声に出してみればすぐわかりますが、S音とK音の響きがまことに快いのです。上の句の「さらす」、「さらさら」からくるS音の爽やかですがすがしい響き。そして、下の句の「この児」、「ここだ」、「かなしき」と、小刻みに繰り返されるK音は、弾むようなテンポと力強さとを、一首に与えています。
『無名草子』の一節に、「歌をも詠み、詩をも作りて」とありますが、和歌はもともと詠ずるもの、つまり、声に出して歌うものなのです。歌はまず耳から入り、そして口ずさむものでした。
それが、活字文化が盛んな現代では、和歌や俳句は、まず目から入ってきて、ついで頭へいって、意味を左脳で考え、理解がなされます。目から頭へ、という流れはどうしても、「リズム」や「響き」ということを忘れがちです。
リズムや響きのよい和歌や俳句は、耳から聞いたときに快く、また口ずさんだときに心地よいものです。俳句を作る場合、これらの大切さを忘れずに意識しておきたいものです。
『ささめごと』の、この「昔と中ごろの連歌」の部分を読むたびに、心敬さんの声が聞こえてきます……
俳句は、自然と自分とのかかわりを嘯(うそぶ)くもの。季語の心、つまり、
季感を忘れて、ただいたずらに美辞麗句を並べ立てたり、しゃれた表現を
しようなどと考えてはだめなの。季語は飾り物ではないのじゃ。季語のそな
え持っている季感に、おのれ自身の心を通わせ、そして心を季感に沈潜し、
おのれの周辺を見渡すのだ。
そうして、心にうったえてくるものや、おのれの実感を季語と結びつけ、具
体的に表現するの。観念語を使ったり、こけおどし的な言葉を使うと、句が
死んでしまうの。実感として季節を感じ、一字一句をおろそかにせず、簡潔
に表現することが大切なのじゃ。
つまりだな、俳句は、自分の心情や感動を具体的なもの〈季語〉に託して、
うたいあげるものなの。
連歌では、「捨てどころ」が急所であったが、俳句では、「省略・単純化」
が命なの。ただ、捨てて、捨てて、すべて切り捨てた結果としての、単純で
なければいけないんだな。
「言いおおせて何かある」。省略がきけばきくほど、読む者の想像が広が
ってくるのじゃよ。だが、省略された部分が、ほのかに思い浮かぶような省
略でなければならない。ここが難しいのだよ。
もうひとつ教えてあげよう。「俳句は愛情」。これを忘れてはだめだよ。こ
の世に存在するすべてのものに、こまやかな愛情をもって接すること。そし
て何よりも、自分自身に対しても愛情を持つことだ。
これらが名句の特色、つまりは、俳句を作るコツなのじゃよ。
大寒の我が身出でゆけ癌三つ 季 己