やぶいりのまたいで過ぎぬ凧の糸 蕪 村
凧揚げの場の、傍観的一情景とはとりたくない。藪入(やぶいり)をする人の上に自分の身を置いて、一句を鑑賞したい。
大勢が凧揚げをしている場所は、街はずれ、郊外であることはもちろんであるが、ここでは、藪入をする人の生家もほど近いあたりにある、と考えてもよかろう。
「またいで過ぎぬ」とあるので、凧の糸も地面からそんなに高く離れていないことがわかり、糸が遠くへまで出し切ってあるほどに、野面が広いことも自然とわかる。
正月とあって藪入を許された主人公は、浮き立つ思いで、足を急がしてくると。生家近くの野では、これも正月らしく、大勢が凧を揚げている。
自分はもう、ここで凧を揚げるような年齢も過ぎ、またそういった境遇にもいないが、とにかく、懐かしいありさまである。急ぐ思いと、浮き立つ気持のままに、いくつもの糸をさっさとまたいで通り過ぎていった。むしろ、またいで行くことが楽しかったのである。
「やぶいりの」は、「やぶいり」だけで、藪入をする人間をあらわしている。「の」は「が」の意で、「藪入をする人が」。
「やぶいり」は、正月と盆の十六日前後に、主人の家から休暇をもらって、生家などに帰ること。また、その日。盆の休暇は、「後の藪入」ともいった。
年に二回の藪入と、毎月、一日・十五日の休みしかない、昔の奉公というものは、そんなにも厳しいものであった。
季語は「やぶいり」で、新年。「宿入(やどいり)」とも。
「藪入で家路を急ぐ者が、行く手を阻むように横切っている凧の糸を、
にこやかな顔つきで気軽にまたいで、そのまま、すたすたと通り過ぎ
ていった」
さざなみのかげ一月の葦洗ふ 季 己
凧揚げの場の、傍観的一情景とはとりたくない。藪入(やぶいり)をする人の上に自分の身を置いて、一句を鑑賞したい。
大勢が凧揚げをしている場所は、街はずれ、郊外であることはもちろんであるが、ここでは、藪入をする人の生家もほど近いあたりにある、と考えてもよかろう。
「またいで過ぎぬ」とあるので、凧の糸も地面からそんなに高く離れていないことがわかり、糸が遠くへまで出し切ってあるほどに、野面が広いことも自然とわかる。
正月とあって藪入を許された主人公は、浮き立つ思いで、足を急がしてくると。生家近くの野では、これも正月らしく、大勢が凧を揚げている。
自分はもう、ここで凧を揚げるような年齢も過ぎ、またそういった境遇にもいないが、とにかく、懐かしいありさまである。急ぐ思いと、浮き立つ気持のままに、いくつもの糸をさっさとまたいで通り過ぎていった。むしろ、またいで行くことが楽しかったのである。
「やぶいりの」は、「やぶいり」だけで、藪入をする人間をあらわしている。「の」は「が」の意で、「藪入をする人が」。
「やぶいり」は、正月と盆の十六日前後に、主人の家から休暇をもらって、生家などに帰ること。また、その日。盆の休暇は、「後の藪入」ともいった。
年に二回の藪入と、毎月、一日・十五日の休みしかない、昔の奉公というものは、そんなにも厳しいものであった。
季語は「やぶいり」で、新年。「宿入(やどいり)」とも。
「藪入で家路を急ぐ者が、行く手を阻むように横切っている凧の糸を、
にこやかな顔つきで気軽にまたいで、そのまま、すたすたと通り過ぎ
ていった」
さざなみのかげ一月の葦洗ふ 季 己