壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

寒の入

2011年01月06日 21時11分52秒 | Weblog
        月花の愚に針立てん寒の入     芭 蕉

 「寒の入」は、旧暦では、一年の果ての厳寒期に入る日である。その厳しい寒さの中に身を置き、厳粛な心で自己反省をしたものであろう。風雅への心が深ければ深いほど、その一方ではそれを「愚」と観ずる心が強かったのである。
        しばらく学んで愚をさとらん事を思へども、これがために
        破られ、つひに無能無芸にして、ただ此の一筋につながる。
 とは、すでに『笈の小文』の冒頭で述べたことばであった。

 「月花の愚」とは、花鳥風月に執着をたちきれない風雅心をかえりみて「愚」と観じたもの。
 「針立てん」は、きびしく自ら戒めようの意。
 「寒の入」は、新暦の一月五、六日ごろ。冬至の後十五日目の小寒の日のこと。以後、大寒(一月二十一日ごろ)を経て、節分に至までの一ヶ月が「寒の内」で、事実上も厳寒の時期である。

 季語は「寒の入」で冬。「寒の入」のきびしい寒さが実感としてではなく、一般的な観念として使われている。

    「一年をふりかえると、月よ花よと風雅に浮かれて過ごしてきた愚かさが
     しきりに省みられるが、寒の入の今日は、この愚かさに針を立てて、
     きびしく自ら戒めとしよう」


 ――今日は二十四節気の一つ「小寒」である。つまり「寒の入」の日のことで、これから寒さがきびしくなりはじめる。芸事の寒中稽古が始まる。
 芭蕉にならって自己反省?をする。
 昨年は、芭蕉の句を中心に、俳句ソムリエになったつもりで能書きを言ってきた。自分の作品との大きなギャップを感じながら。
 今年は心敬について書くことにする。心敬といってもご存知ない方が多数だと思う。
 「俳聖 芭蕉」といわれるように、芭蕉は「俳句の神様」といってもよい。その神様が崇拝する人物の一人に宗祇がいる。
 宗祇は、室町末期の連歌師だが、その連歌の師が心敬なのである。幸い心敬には『ささめごと』という主著がある。
 『ささめごと』は、いわゆる連歌論であるが、「連歌」を「俳句」と読み替えれば、俳論として立派に通用する。芭蕉の俳話・俳論として残っているものの少なくとも八割は、心敬の述べていることなのである。
 実は別のブログに『水の歌びと』と題して、2004年9月12日から2007年7月23日まで、心敬について書いた。しかし、このブログを訪問して下さる方が、月に数人というさびしいものであった。
 今年はこれを全面改稿して、多くの方に読んでいただけるものにしたいと思っている。どうぞよろしく……。 

      めつむれば芭蕉心敬 寒椿     季 己