壺中日月

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「俳句は心敬」  (8)名句の特色

2011年01月18日 22時23分28秒 | Weblog
        ―― 順覚・救済などの連歌師が出たころのすぐれた連歌風体と、中ご
         ろ(鎌倉中期以後)の風雅とを比べてみますと、黒と白というように、
         はっきり違って見えるといいますが、そんなにも変わってしまったの
         でしょうか。

        ―― 先学は、つぎのように語っている。まったく、どんなにひいき目
         に見ても、非常に変わっているように見える、と。
          昔の作者の句を調べてみると、前句との続け具合に苦心して、五音
         相通とか五音連声ということまで、心を配っている。
          それが中ごろからは、まったく前句の意味趣向を考えることなく、
         ただ自分の句の表現修辞にだけ、華麗な詞藻や技巧の限りをつくし、
         似つかわしくないところにでも、月花雪などのような際だった景物を、
         むやみに並べ立てている。
          それらの句は、前句と全く意味が通じないので、まるで魂のない死
         人が美しく着飾って並んでいるようなものである。前句のどの部分に
         どう付けてゆくかによって、深みがなく底の浅い感じの言葉さえも、
         今までとは打って変わった洗練された上品な句になるものだ。
          昔の作者の句は、前句の表現や風姿を二の次にして、もっぱら趣向
         内容を深く把握し、しっかり付合わせている。
          前句のうちのどこを取り、どこを捨てるか、取りどころ捨てどころ
         の、工夫判断の優秀さが感じとられる。
          近頃はただ、前句の言葉を一つ一つ取り上げて、それぞれの言葉の
         縁だけで付けて、前句の詩的内容を深く理解することを忘れ果ててい
         るのだ。
          その一例として、昔の人の句を少々あげてみる。

            吉野山ふたたび春になりにけり
              年のうちより年をむかへて   後鳥羽院
          このごろの句なら、吉野山の縁語が付句に見えないと、非難される
         ことだろう。

            ささ竹の大宮人のかり衣
              一夜はあけぬ花のしたぶし   定家卿
          今の人の句ならば、「ささ竹」だけは、付句の「よ」に付いているが、
         大宮人もかり衣も、付句のほうに縁語が見えぬ、と言われるだろう。

              結ぶ文にはうは書きもなし
            石代のまつとばかりはをとづれて   順 覚
          このごろの句であったら、前句の「うは書き」が付いていないと、
         非難することだろう。

            さほ姫のかつらぎ山も春かけて
              かすめどいまだ嶺のしら雪   家 隆
          さほ姫は春の女神。そのかつら(鬘)に葛城山を掛けて序としてい
         るのだが、このごろの句ならば、寄り添っていないと難じるだろう。

              むすぶの神にすゑも祈らん
            いく夜ともしらぬ旅ねの草枕    信 照
          前句では、縁結びの神の意に用いている「むすぶの神」を、旅行安
         全の神にとりなして付けた句である。それを、前句に「神に祈る」と
         いっているのを、付句では付けを落としていると、このごろの人は言
         っている。

              舟こぐ浦はくれなゐの桃
            からくにの虎まだらなる犬ほえて   周 阿
          「くれなゐ」と「からくに」が縁語なのに、このごろの句ならば、
         舟に付かないと、口やかましく言い立てるだろう。

              うはぎにきたる蓑をこそまけ
            かりそめの枕だになき旅ねして   良 阿
          なぞのような前句を、「かりそめの枕さえない旅寝をして、上着に
         していた蓑を巻いて寝た」と付けてさばいたものだが、このごろの人
         は、蓑と巻くを付け落とした、などと言っている。

              馬おどろきて人さはぐなり
            はや川のきしにさはれるわたし舟   救 済
          このごろの人は、馬が付かないと、きっと非難することだろう。

          これらの句は、前句の捨てどころが際立って優れているので、最上
         の秀逸句になったのである。こういう例は、一つ一つ数え上げたらき
         りがない。
          前句の何に付けるかということより、何を捨てるかということが、
         難しいことなのだ。  (『ささめごと』 昔と中ごろの連歌)


      寒木瓜ををんなの修羅と言ひしひと     季 己