壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

比丘より劣る

2011年01月31日 20時42分58秒 | Weblog
        紅梅や比丘より劣る比丘尼寺     蕪 村

 「比丘(びく)」は、出家した男子、つまり僧。「比丘尼(びくに)」は、出家した女子、つまり尼僧。
 「比丘より劣る」は、『徒然草』百六段、高野の証空上人が馬上の女をののしる語「比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく=在俗の男性の仏教信者)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい=在俗の女性の仏教信者)は劣れり……」を借りて評している。
 これらの語は、仏弟子としての位置の優劣を言っているのである。
 「比丘尼寺」は、こういう名称の寺があるわけではなく、これも単に尼寺の意である。この場に合わすための蕪村の造語かも知れない。

 「比丘より劣る比丘尼寺」というやや滑稽な調子が、全体におもしろい軽味を与えるために利用されている。もし、「比丘より劣る」という言葉をもっと活かして鑑賞するとすれば、これによって寺とは名のみの、きわめてささやかな尼寺を想像することができる。
 その小さな寺が尼寺であるために、頭をまるめた者たちとはいえ、さすがに女性の住処とあれば、紅梅の咲いているのも似つかわしいかも知れないという、おかしみも添う。

 蕪村は漢詩文以外に、和文の教養も相当深かったらしく、ことに軽妙な『徒然草』は嗜好に合っていたと見える。
 蕪村があくまでも教養を基とする芸術家であって、生活そのものから直接に詩の素因を見出す類の芸術家でなかったことは、その必然のあらわれを作品の上にもさまざまの形で示している。
 この紅梅の句など、『徒然草』のひとこまを転用した技倆の軽妙さを味わう以上に、さしたる深みを求めることは無理である。

 季語は「梅(紅梅)」で春。

    「徒然草の中のあの話によれば、比丘より劣るとののしられた比丘尼の住む寺に、
     さすがに優艶な紅梅が咲いている。それがいかにも尼寺にふさわしく面白い」


      寒波来て胸中の星ちぎれさう     季 己