壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (15)有心体

2011年01月29日 20時38分48秒 | Weblog
 「母ちゃん、醤油樽と“ひゃくにんひとくび”が当たったよ」と、家に飛び込んだのは、五十数年前の年末のことです。
 “ひゃくにんひとくび”とは、もちろん『小倉百人一首』のことですが、小学生の私は、そんなことは知るよしもなかったのです。

 『小倉百人一首』は、『小倉山荘色紙和歌』とも呼ばれ、藤原定家の和歌的仕事のうち、最後のものです。これらの百首は、定家が、自由に好むところを選んだようです。したがって、これによって定家の真に好きな風体が何であったかを知ることができます。
 『小倉百人一首』を、もとの歌集の部類によって部類別にすると、百首のうち四十三首は恋の歌です。この数の上にまず、定家の好みが現れていると思います。定家は、恋の歌を最も好んだのです。恋歌に最も優れているといわれる定家は、恋歌を最も好んだことが知られます。
 「恋と述懐とは有心体に詠むべし」、「有心体を最も本意と思ふ」と、述べていることなどを考え合わせるとき、恋歌を最も好んでいる定家は、同時に、有心を好んでいる定家であるはずです。したがって、老後においても、定家が有心体を最も愛していたことが考えられるのです。

 心敬は、定家が鬼拉体を最高の体と言った、と書いていますが、これは心敬の誤解でしょう。定家は『毎月抄』で、鬼拉体は錬磨の後でなければ詠めない体であることは説いていますが、最高の体だとは言っておりません。
 定家はあくまで、有心を理想としたのです。つまり、「心を重んずる」という姿の歌を尊重したのです。それでは、有心体といわれる恋歌とは、一体、どのようなものでしょうか。

        みちのくのしのぶもぢずりたれ故に
          乱れそめにしわれならなくに   河原左大臣

        住の江の岸による波よるさへや
          夢のかよひぢ人目よくらむ   藤原敏行朝臣

        わびぬれば今はたおなじ難波なる
          みをつくしても逢はむとぞ思ふ   元良親王

        みかきもり衛士のたく火の夜はもえ
          昼は消えつつものをこそ思へ   大中臣能宣

        あらざらむこの世のほかの思ひ出に
          いまひとたびのあふこともがな   和泉式部

        長からむ心も知らず黒髪の
          みだれて今朝はものをこそ思へ   待賢門院堀川


 すべてが粒よりの妖艶の歌です。有心体が妖艶の歌であることは、これらの歌を見ただけでも、疑いないことだと思います。
 また定家が、妖艶の歌の源流のごとく考えた小野小町の歌から、

        花の色はうつりにけりないたづらに
          わが身世にふるながめせしまに


 という、家宝のような歌をとり、自己の数千首の歌の中から

        来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
          焼くや藻塩の身もこがれつつ


 という、妖艶有心の至極のような歌をとっています。

 定家が、自ら真に本意とした歌は、有心を主とした歌でした。
 しかし、当代一流の歌人でさえ、ひとりとして、その真意を解し得ないような妖艶象徴の歌は、教育的な見地から見れば、かなり危険な歌であったのです。そのような歌を、若き人たちにすすめることは、いたずらに徒労と混迷にみちびくので、ためらったのです。


      風まはり来て北風となるこよひ     季 己