壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」  (7)光の采

2011年01月15日 15時33分42秒 | Weblog
 ――「竜安寺の石庭」というと、平成十六年三月、東京・銀座の『画廊宮坂』で開かれた「武田州左展」を思い出さずにはおれません。州左先生は、私の大いに期待する画家さんの一人です。
 彼は、岩絵具を素材に使用して、いわゆる抽象画を創作しています。「GLOBE]から「GLOBE光」、そして今は「光の采(あや)」シリーズをつづけていますが、その赤や青の鮮烈な色彩の中に、「存在のかなしみ」が私には見えるのです。
 ことに、『画廊宮坂』での個展における作品のうち、大作四点、小品二点に、「竜安寺の石庭」が想起され、身体全体が、何かあたたかいものに包み込まれたような、深い感動をおぼえました。この小品一点が、いま拙宅にあり、至福の時をしみじみ感じております。

 現代美術家であった父君を早くに亡くされた州左先生が、生命に対してとりわけ執着し、切実感をもって対峙するのは当然のことでしょう。美術評論家の草薙奈津子氏が、次のように述べておられます。
        彼にとっての生命とは決して否定的なものではない。「ダイナミックでも
       あり、繊細でもあり、強くも弱くも優しくも、そして深く華やかでもある」存在
       なのである。それに誰も犯すことの出来ない存在でもある。その生命の
       鼓動は強烈な赤や青で、時に怒濤のように、時に分裂する細胞のように、
       遠心的とも求心的ともなる。(「武田州左展」図録)
 「存在のかなしみ」を秘めつつ、宇宙のはてしない生命を希求するような明るさ、拡大性、発展性といったものが、画面上に跳躍する「GLOBE光」。
 その「GLOBE光」から「GLOBE]がとれ、緑と白の絵具を多用し、「水の流れ」を象徴したように感じられる「光の采」シリーズ。
 「私が生きていく限り、私の生命が表現の軸である」と語る州左先生。
 「〈命〉が本質的にもっている〈活力や動的な思い〉を〈光の采〉に託す」とも、おっしゃる州左先生。
 そのために、常に自己の精神を高く堅持しようと、たゆまぬ努力をされる州左先生。
 いま四十八歳の州左先生の、人間として画家としての今後が、ますます楽しみです。

 さて、話を連歌に戻しますと、連歌もまた同じです。心敬の句に、
        北にゆく人はこの世にとどまらで
 というのがあります。
 極限的な無をめざして、独りとぼとぼとゆく旅人には、「存在へのかなしみ」が感じられ、この句の持つ深さやあわれさが、ほとんど限りないものに感じられます。同じく心敬の、
        舟人も棹を忘るる秋の海
 も、秋の海の限りなき広がりの中に、ただ独り、舟をとめている舟人の寂寥は、万有の根底まで響いてゆくものをもっています。

 新古今の歌は、華麗だ、技巧だけだといわれて、中世的深さなどと無縁のもののように思われています。しかし、華麗でなければ表現できなかった「中世的なかなしみ」の深さに、思いを致さねばなりません。
 中世の美を特色づけるものとしての、存在への思念の深さを、忘れてはならないと思います。


      雪山を越えきし雲が藍を刷く     季 己