壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」  (1)心の持ち方

2011年01月07日 22時36分18秒 | Weblog
 「俳句は心敬」などというと、「俳句といえば、芭蕉ではないの?」という声が聞こえてきそうです。でも、私にとっては「俳句は心敬」なのです。なぜ、芭蕉ではなく、心敬なのでしょうか。
 ――幸か不幸か、私は芭蕉から俳句の世界に入りました。
 自覚して、俳句を勉強しようと思ったのは、大学で『奥の細道』を学んだときです。このときの先生が、芭蕉研究の第一人者、井本農一教授でした。この後、井本先生には、大学院も含めて四年間、芭蕉についてみっちり教えていただきました。けれども、この間は、もっぱら俳論を学んだので、一句も作っておりません。
 昭和五十一年九月、たまたま遊びに行った先輩宅で、岡本眸先生に出会ったのです。そしてそのとき頂いたのが、句集『冬』です。
        姪の目に気楽な叔母の冬帽子     眸
 の姪が、先輩の奥さんだったのです。
 これがご縁で、眸先生の添削指導を受けるようになりました。私の俳句実作入門です。
 しかし、すぐにつまずいてしまいました。戻ってきた投句用紙に、
        「二句とも報告に終わっています。日常句の場合、
         自分の詩の世界を作り出すことが大切です」
 と、書かれていました。
 わかりませんでした。[自分の詩の世界]とは何なのか、全くわかりませんでした。
 これを模索して一年ほど、ほとんど句が出来ませんでした。いま考えてみますと、「ほとんど句が出来なかった」というのは、正しくないかも知れません。句は作っていたのです。ただ不遜(ふそん)にも、無意識のうちに芭蕉の句と比較して、「これもだめ、あれもだめ」と捨てていたのです。
 何も知らずに俳句の世界へ入っていたなら、こんなことにはならなかったでしょう。なまじ芭蕉を学んでしまった不幸です。

 よく、「私は、俳句のハの字も知らないから」といって、俳句を始めるのに、二の足を踏む方がおられます。これは大きな間違いです。
 何も知らない白紙の状態で物事を習えるのは、かえって幸せなことなのです。学問がなく、言葉を知らないなどと、よけいな思い過ごしをせずに、とにかく第一歩を踏み出すことが大切だと思います。

        山ふかし心におつる秋の水     心 敬
 心敬は、その主著『ささめごと』のなかで、
        「句を幽玄に詠むことは大事であるが、それは単に表現の
         問題ではなく、作者の心の持ち方が大事なのだ」
 と、説いています。
 つまり、句を上手に詠むことが目的ではなく、自分自身の句を詠んで、心の安らぎをおぼえ、生きている喜びを感ずることが大事なのだ、と言っているのです。
 これこそが、私の目指す俳句であったのです。また心敬は、
        「心の底から優美で、あらゆるものを優しく、美しく見る
         ことが出来るのが大事だ」
 とも言っております。

 本当にすぐれた句は、人間として、真に誠実に生きている人でなくては、詠めないと思います。俳句を作るということは、つまりは、心の修行なのです。人生修行と俳句修業とは、決して別のものではないのです。俳句の修業が、すなわち、人生修行なのです。


      たかぶりは七草粥のこしひかり     季 己