陸奥(みちのく)に下らむとして、
下野国(しもつけのくに)まで旅立ち
けるに、那須の黒羽と云ふ所に、翠桃
何某の住みけるを尋ねて、深き野を分
け入る程、道もまがふばかり草深ければ
秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しおり)の夏野かな 芭 蕉
秣負う人を枝折とするというのは、道のわからぬ頼りない不安もあるが、それだけではなく、そう感ずることに自ら興じているように思える。
初案は「馬草刈る」であったらしいが、これだと一ヵ所に止まっている感じだが、「秣負ふ」だと動きが出て、いっそう距離感が出るようである。
『赤冊子草稿』には上五を「馬草刈る」とし、
「此の句、『奥の細道』になし。猿雖(えんすい)方へ松島旅よりの文通に、
『那須にて人をとぶらふ』と書きて此の句有り。かの『細道』に云へる黒羽
の館代浄坊寺何某の事か」
と注記がある。
「馬草刈る」が初案、「秣負ふ」が決定稿であろう。『奥の細道』の旅での作。『随行日記』によれば、翠桃訪問は、元禄二年四月三日。
「下野国」は、今の栃木県。
「翠桃」は、鹿子畑(かのこばた)高明の二男、岡忠治豊明(父高明が事あって追放され、豊明の代に帰参がかなったが、はばかって鹿子畑を称することなく、親戚の姓である岡氏を名乗った)。陣代家老浄法寺図書高勝の弟。当時二十八歳。『奥の細道』に「桃翠」とあるのは誤り。
「秣負ふ人」は、馬の餌とする青草を刈って、背に負うて帰る人。本により「秣」・「馬草」の二通りの表記が見られるが、意味上の違いはない。
「枝折」とは、山路のしるべとして、木の枝を折って心覚えとしたものであるが、広く道しるべの意でも用い、ここもそれである。
「夏野」が季語。青一色の草の野で、枝折とすべき樹木とてない広漠とした感じを生かした、素直な使い方になっている。
「広々とした那須野のこととて、どこを道とも定めがたい。はるかに秣を負うて帰る
草刈男が見えるが、それを目印として道を辿って行くことだ」
夏野来て織部長皿いろ深む 季 己
下野国(しもつけのくに)まで旅立ち
けるに、那須の黒羽と云ふ所に、翠桃
何某の住みけるを尋ねて、深き野を分
け入る程、道もまがふばかり草深ければ
秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しおり)の夏野かな 芭 蕉
秣負う人を枝折とするというのは、道のわからぬ頼りない不安もあるが、それだけではなく、そう感ずることに自ら興じているように思える。
初案は「馬草刈る」であったらしいが、これだと一ヵ所に止まっている感じだが、「秣負ふ」だと動きが出て、いっそう距離感が出るようである。
『赤冊子草稿』には上五を「馬草刈る」とし、
「此の句、『奥の細道』になし。猿雖(えんすい)方へ松島旅よりの文通に、
『那須にて人をとぶらふ』と書きて此の句有り。かの『細道』に云へる黒羽
の館代浄坊寺何某の事か」
と注記がある。
「馬草刈る」が初案、「秣負ふ」が決定稿であろう。『奥の細道』の旅での作。『随行日記』によれば、翠桃訪問は、元禄二年四月三日。
「下野国」は、今の栃木県。
「翠桃」は、鹿子畑(かのこばた)高明の二男、岡忠治豊明(父高明が事あって追放され、豊明の代に帰参がかなったが、はばかって鹿子畑を称することなく、親戚の姓である岡氏を名乗った)。陣代家老浄法寺図書高勝の弟。当時二十八歳。『奥の細道』に「桃翠」とあるのは誤り。
「秣負ふ人」は、馬の餌とする青草を刈って、背に負うて帰る人。本により「秣」・「馬草」の二通りの表記が見られるが、意味上の違いはない。
「枝折」とは、山路のしるべとして、木の枝を折って心覚えとしたものであるが、広く道しるべの意でも用い、ここもそれである。
「夏野」が季語。青一色の草の野で、枝折とすべき樹木とてない広漠とした感じを生かした、素直な使い方になっている。
「広々とした那須野のこととて、どこを道とも定めがたい。はるかに秣を負うて帰る
草刈男が見えるが、それを目印として道を辿って行くことだ」
夏野来て織部長皿いろ深む 季 己