壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

いかなる人

2010年06月06日 21時26分17秒 | Weblog
        鰹売いかなる人を酔はすらん     芭 蕉

 初鰹は当時においては、高価なものであった。だが威勢を尊ぶ江戸っ子は、何をおいてもこれを賞味したものである。
 しかし、貧しい庶民の手には、容易に入るものではなかった。芭蕉のこの句も、そういう気持を詠じているところがある。

 季語は「鰹」で夏。

    「鰹(かつお)売りが威勢の良い売り声で呼び歩いている。鰹はどういう人の手に入って
     夕餉に上り、晩酌の肴としてその人を酔わすことであろう」


 「現代名僧墨蹟展」の案内状が来た。「主な出品予定者」のなかに、中山青空子(日本画家)とあったので、上野松坂屋の美術画廊へ出掛けて行った。
 中山先生の「印仏」(篆刻)が好きで、昨年も同展で先生の作品を購入した。今年も購入しようといそいそと出掛けたのだ。しかし、会場をいくら見渡してみても、先生の「印仏」は見当たらない。念のため、同展の図録を調べたら、不動明王の「印仏」を出品されている。
 「来るのが遅かったか。きっと売れてしまったのだ」という思いの反面、「いや売れているはずがない。私を待っていてくれるはずだ」という気持ちが強くなり、係の人に尋ねた。
 案の定、まだ売れてはいなかった。けれども、この上野松坂屋の会場では売らないという。この「名僧墨蹟展」は全国を巡回するので、中山先生の「印仏」は、どこの会場で販売するか不明だという。
 「案内状に名前を載せ、作品も届いているなら、ここで売るのが当然だろう。他の会場で売ると決まっているのなら、名前を載せるな」と言いたかったが、気が弱くて何も言えなかった。
 そういうことなら、もうこんな「迷走」イヤ「名僧墨蹟展」には出掛けるものか。青少年育成のため、ということで長年、なにがしかの作品を購入・協力してきたが、もう見にも行くまい。
 ――それにしても、あの不動明王の「印仏」、“いかなる人”のもとにゆくのだろうか。

      印仏の不動明王 新樹光      季 己