壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

平常心

2010年06月23日 23時05分16秒 | Weblog
 「平常心」と赤字で書かれた三文字が、目に飛び込んできた。つづいてアナウンサーが、「ふつうヘイジョウシンと読んでいるが、正しくはビョウジョウシンである云々」と解説を始めた。テレビの昼のワイドショーでのことである。

 九世紀末の中国唐代のこと。禅の高僧として知られた趙州(じょうしゅう)がまだ修行中のころ、師の南泉和尚(なんせんおしょう)に
 「道とは何でしょうか」
 とたずねた。そのとき南泉が趙州に答えた語が
 「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」
 である。

 「平常心」の「平」は、平等・共通の意。「常」は、変わらないさま、コンスタント。「道」は、真髄・真理の意味である。
 よって、平常心とは、何ものにも動かされない、執着しない心をいう。この心が、真理や真実そのものであるから、「平常心是道」との答となる。「道」というと、何か特別の存在や意味があるように考えるが、その必要はない。
 わたしたちの立ち居振る舞いに、身びいきや身勝手なエゴイズムの思いがないのが「平常心」。この平常心で行動するのが、そのまま真理の道であるからだ。

 「平常(びょうじょう)」と「平生(へいぜい)」とは、似て非なるものである。平生は、〈ふだん・そのまま〉だが、平常には、このほかに「自然(じねん)」の意味がある。
 「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」ともまた異なる。山川草木(さんせんそうもく)などのたたずまいに、手を加えずにそのままにしておくのが自然(しぜん)であろう。
 自然(じねん)は、真理そのままにある状態をいう。真理のままに自然(しぜん)があるのを、「自然法爾(じねんほうに)」とも「法爾自然(ほうにじねん)」ともいう。天然自然そのままに真理が示されているということだ。浄土宗開祖の法然上人(ほうねんしょうにん)の名も、ここに拠るという。リンゴが枝から下に落ちる自然そのままに、宇宙引力があらわれているのが、その一例だ。
 リンゴは地に落ちるのを嫌って、樹枝にしがみつくようなことはしない。熟して枝から離れる時期が来れば、無心にぽとりと落ちる。それが真理の道なのである。執着心のないところに、おのずから人の踏むべき真理の道が開ける。

 俳句・絵画・武道・華道・スポーツの道でもみな同じ。「うまく見せよう」などと自分に取り付くと、とかく、あがったり、つまらないミスを犯すであろう。稽古や練習のときのように、本番でも無心にふるまえるのが「平常心是道」である。
 この域に達するには、どの世界でも練習と稽古の積み上げしかなかろう。練習・稽古の習慣化が大切だと思う。


      六月の山にしづかな眼あり     季 己