もの一つ我が世はかろきひさごかな
「もの一つ」とまず言い出したのは、芭蕉庵の簡素で目につくようなもののない中から、特に一つ取り上げている感じである。
そして、その“ひさご”の軽々とした感じが、象徴しているような芭蕉庵における自分の生活を、拘束のない、しかし、いくらか侘びしさのある気分として、「我が世は」と呼び起こしてきているのである。
別伝に、「ものひとつ瓢(ひさご)はかろきわが世かな」とあるが、もし、このように「瓢はかろき」となると、「かろき」が上下にかかり、この瓢が軽いような、そういう自分の境涯であるということになる。
「我が世は」は、わが生活は、わが境涯は、の意。
「ひさご」は、ふくべともいう。古来、飲料水の容器に利用されたり、手工芸品として親しまれてきた瓢は、中央のくびれた独特の風情ある果実である。棚作りされるが、百生り・千生りと呼ばれるように、多量の実をつける。いわゆる“ひょうたん”である。生っている時の感じも、容器としたものも、いかにもかろがろとしている。
季語は「ひさご」で秋季。秋の季趣には乏しい使い方である。貞享三年(1686)秋の作と考えられている。
「芭蕉庵には、これといって目立つような器の類は何一つないが、その中
にただ一つ瓢がある。これはまことにかろがろとした感じで、我が境涯
のかろがろとした趣とよく合っていることだ」
カテーテルふくべの影の長きかな 季 己
「もの一つ」とまず言い出したのは、芭蕉庵の簡素で目につくようなもののない中から、特に一つ取り上げている感じである。
そして、その“ひさご”の軽々とした感じが、象徴しているような芭蕉庵における自分の生活を、拘束のない、しかし、いくらか侘びしさのある気分として、「我が世は」と呼び起こしてきているのである。
別伝に、「ものひとつ瓢(ひさご)はかろきわが世かな」とあるが、もし、このように「瓢はかろき」となると、「かろき」が上下にかかり、この瓢が軽いような、そういう自分の境涯であるということになる。
「我が世は」は、わが生活は、わが境涯は、の意。
「ひさご」は、ふくべともいう。古来、飲料水の容器に利用されたり、手工芸品として親しまれてきた瓢は、中央のくびれた独特の風情ある果実である。棚作りされるが、百生り・千生りと呼ばれるように、多量の実をつける。いわゆる“ひょうたん”である。生っている時の感じも、容器としたものも、いかにもかろがろとしている。
季語は「ひさご」で秋季。秋の季趣には乏しい使い方である。貞享三年(1686)秋の作と考えられている。
「芭蕉庵には、これといって目立つような器の類は何一つないが、その中
にただ一つ瓢がある。これはまことにかろがろとした感じで、我が境涯
のかろがろとした趣とよく合っていることだ」
カテーテルふくべの影の長きかな 季 己