壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

隣は何を

2009年10月06日 20時01分39秒 | Weblog
        秋深き隣は何をする人ぞ     芭 蕉

 『笈日記』九月二十八日の条に、「明日の夜は、芝柏が方にまねきおもふよしにて、ほつ句つかはし申されし」と前書きがあり掲出されている。
 これから、元禄七年(1694)九月二十八日にこの句を作り、明夜、芝柏(しはく)の家で催される連句の会の発句として、芝柏に届けたことが知れる。体調不良のため、俳席に出席できないのを見込んで、あらかじめ前日のうちに送った句のようである。
 必ずしも初めから俳席用に詠んだというようなものではなく、手持ちの作品を流用したものであったかも知れない。挨拶の意は淡い。それは晩年の“軽み”の時期の特色でもあるが、それにしても、この句に挨拶の心をどう読むかは、一つの問題点である。「隣」を芝柏に当てる読み方は、その点では適切であるが、一句の持つ微妙なふくよかさは失われてしまう。
 やはり、この句の持つ、ある人懐かしさの感情、他者をほのぼのとつつんでゆく心の動きに注目すべきであろう。

 最晩年の芭蕉は、挨拶もあらわなものにせず、形なきよりいづる性格のものをもって足れりとしたのだと思う。その意味でも、この句に孤独感だけを感じとる読み方は十分ではない。相知ることもなく、ひそかに隣り合って生きることに深い寂寥を感じつつも、隣人に対してひそかに人間同士のつながりの思いがひろがってゆき、それが「何をする人ぞ」という心の傾きに結晶してゆくのである。隣人のひそやかな生き方に、己の在り方を省みる心でもある。

 この句では、描写という要素はほとんど切り捨てられ、ただ「秋深き」という季節感に集約されている。そしてそれは、自分も彼もあらゆるものが、秋深き底にある、その中の「秋深き隣」という把握なのである。
 「秋深き」で切れるのではない。いわんや「秋深し」では詠嘆に流れ、全く平板になってしまうであろう。

 隣り合って住んでいても、結局、人間はひとりひとりで、めいめいの営みをするだけだというさびしさと、同時に、やはりひとりでは生きてゆけず、いつも誰かを求めている人恋しさとを、人間存在の本質と諦観し、それを晩秋の衰えゆく自然のあわれと重ね合わせて、重層的に把握した作品である。さりげない平易な表現の中に、芭蕉最晩年の底辺感情が揺曳していて、いわば“軽み”の極致と言えよう。

    「こうして旅のやどりに身を置いていると、深まった秋の寂しさの最中、
     静まりかえった隣の家に、人の営みのひそかな気配が感じられる。
     いったい、そこには何をする人が住んでいるのであろう。寂しさの底か
     ら、しきりに人恋しさを感じることだ」


      秋ふかき厨子の剥落 女人堂     季 己