壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

大いなる愚

2009年10月14日 00時01分27秒 | Weblog
 「大いなる愚」というと、大愚良寛を思い出す方が多いと思う。しかし、良寛さんの話ではない。
 江戸中期の白隠禅師の頌(じゅ)に、「徳雲ノ閑古錐(かんこすい)幾タビカ妙峰頂(みょうぶちょう)ヲ下ル。他ノ痴聖人(ちせいじん)ヲ傭ッテ雪ヲ担ッテ共ニ井ヲ塡(うず)ム」とある。
 「徳雲は修行を積んだ高僧だが、閑古錐と呼ぶ。徳雲は悟りの高峰でおさまってはいずに、たびたび山をおりる。そして痴聖人と連れ立って、雪を担って井戸を埋めにかかる」ということだろう。

 「閑古錐」の「閑」とは、“ひま”ということではなく、心の安らいだ状態をたたえる字である。「古錐」は、使い古した錐(きり)をいう。先もまるくなって、誰も使わないから、「閑」である。
 新しい錐は役に立つが、ときには他を傷つけることもある。古錐には、その憂いもないから心も安らぐ。
 買いたての錐は、先鋭で有能で貴重な存在であるように、“やり手”と讃えられる人間は切れすぎて、ときには他者だけでなく自分をも傷つけるきらいがある。「閑古錐」は、この辺の呼吸を示唆するのではなかろうか。
 錐は、穴をあける道具だから、はじめから先がまるくなっていては役に立たない。人間も若いうちは鋭角が多い方がいい。その鋭角の角が一つ一つとれて、はじめて円熟の人格となる。
 「円とは、無限の多角形なり」との数学の定義に、興趣を覚える。

 古来、名将とうたわれた人は、必ずしも快刀乱麻の切れ味のよさがすべてではない。ときには無能力者のように思われもする。現代社会にあって、よき指導者となるにも、「閑古錐」の語から何かを学びとる必要があろう。こうした心境を、禅語で「痴聖人」になぞらえる。「痴」は、たんなる愚ではない。真・善・美・聖を踏み越えた大いなる愚の世界である。

 東洋の古い思想の中には、無駄とわかっていても、なお努力をつづけるところに、人間の尊厳性を凝視したと思われるものがある。この考え方は現代においてこそ、じっくりと学ぶ必要があるのではなかろうか。


      生き死ににあらず明けたる花芙蓉     季 己