壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

雲に鳥

2009年10月13日 14時04分37秒 | Weblog
          旅 懐
        此の秋は何で年よる雲に鳥     芭 蕉

 「旅懐」という前書きが示すように、純粋に旅のおもいを投げ出したもので、孤独なつぶやきのごとき味わいをもっている。
 師の井本農一先生は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を芭蕉の最高傑作とおっしゃっていたが、変人は、この「雲に鳥」の句こそ最高傑作だと思っている。さらに言えば、「俳句はつぶやき」を教えられた句でもある。

 上五・中七は、「軽み」をめざした口語表現で、門人の支考の伝えるところによれば、比較的すらすらと発想されたもののようである。しかし、下五は「寸々の腸をさかれ」たものだという。
 事実、この句の眼目は、「雲に鳥」によって、「此の秋は何で年よる」という独語的なものが支えられているところにある。
 芸道上のはるかな憧れ、はてしない漂泊への誘い、迫り来る老衰の自覚……。こうしたさまざまな思いを一気に吐き出したのが上五・中七であった。それが、「雲に鳥」という、あくまで具象的で、しかも無限の虚しさの中に吸い込まれるような寂寥に満ちた詩句と浸透しあうことによって、一句としての全き世界は形づくられているのである。
 こうして形を与えられたその孤独感は、特定の事物から来たものではなく、もっと深く人生の根源的なかなしみにかかわるものであって、もはや如何なるものをもってしても覆いがたい孤心(ひとりごころ)である。
 「此の秋はいかなる事の心に叶はざるにかあらん。伊賀を出で後心地すこやかならず、明暮になやみ申されしが、……」とは、同行の支考が、この句に触れて書きしるすところである。

 「雲に鳥」について、陶淵明の「帰去来辞」や蘇東坡の「四家絶句」を引く説がある。しかし、変人は、芭蕉の心酔する宗祇(そうぎ)の師である心敬(しんけい)の付句にあると思っている。
 「我が心たれに語らむ秋の空」という句に、
  心敬は、「荻にゆふかぜ雲にかりがね」と付けている。
 「荻には夕風」「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でも互いにその心にふれあうこともできる。しかし、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれていよう。
 心敬を学ぶまでは、「雲に鳥」がよくわからなかった。それがこの付句を見たとたん、芭蕉最晩年の「雲に鳥」を思い起こしたのである。
 後世の芭蕉が、「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによって、まざまざと蘇り、はじめて芭蕉の“こころ”が身に沁みて理解できたように思う。

    「今年の秋は、どうしてこのように年老い、身衰えるというおもいが、深
     く身に沁みるのであろう。眺めやると、かなたの雲にいま鳥影が没して
     ゆこうとしている。その孤独な影にも、雲という語り合えるものがいる
     ではないか。それにひきかえ、漂泊流浪の果て、かかる衰残の身を旅に
     置いている我が身には、自らの心を語るべき相手ももういない……」


      鳥渡る一山一湖一大河     季 己