洛の桑門雲竹自からの像にやあらむ、あなた
の方に顔ふり向けたる法師を画きて、是に賛
せよと申されければ、君は六十年余り、予は
既に五十年に近し。ともに夢中にして、夢の
かたちを顕す。是に加ふるに又寝言を以てす
こちら向け我もさびしき秋の暮 芭 蕉
この、画に向かって呼びかけるところに俳諧がある。これを画賛として味わってみると、侘びしさとともに、不思議なゆとりが漂ってくることを感ずる。
「洛」は京都のこと。中国の洛陽にちなみ、都をいう。
「桑門(さうもん)」は、出家して仏道を修める人。僧侶。
「雲竹(うんちく)」は北向(きたむき)氏。京都東寺観智院の僧で、太虚庵と号し、大師流の書家であった。『鵲尾冠(しゃくびかん)』に越人の、「大師の後の細字雲竹」などがあり、芭蕉が書を学んだ師であると伝えられ、元禄三、四年頃は芭蕉との交渉が多く、『猿蓑』の其角序の版下を書いている。この年五十九歳。芭蕉は四十七歳。「六十年」・「五十年」は、それぞれ「むそぢ」・「いそぢ」と読む。
「ともに夢中にして……」は、『荘子』斉物論の一節によったもの。二人とも夢のようなこの世を生きているが、この絵は、その夢にただよう姿をあらわしているの意。
「秋の暮」が季語で、秋の夕暮れの意。その情を生かした使い方になっている。ちなみに、「暮の秋」は晩秋の意。
「秋の暮れのたださえものさびしい中に、この画像のあるじはいつもむこ
う向きになっている。私にもさびしい秋の暮れなのだ。さあ、こちらを
向いてくれないか。そうして共に語り合おうではないか」
治療法きく耳二つ暮の秋 季 己
の方に顔ふり向けたる法師を画きて、是に賛
せよと申されければ、君は六十年余り、予は
既に五十年に近し。ともに夢中にして、夢の
かたちを顕す。是に加ふるに又寝言を以てす
こちら向け我もさびしき秋の暮 芭 蕉
この、画に向かって呼びかけるところに俳諧がある。これを画賛として味わってみると、侘びしさとともに、不思議なゆとりが漂ってくることを感ずる。
「洛」は京都のこと。中国の洛陽にちなみ、都をいう。
「桑門(さうもん)」は、出家して仏道を修める人。僧侶。
「雲竹(うんちく)」は北向(きたむき)氏。京都東寺観智院の僧で、太虚庵と号し、大師流の書家であった。『鵲尾冠(しゃくびかん)』に越人の、「大師の後の細字雲竹」などがあり、芭蕉が書を学んだ師であると伝えられ、元禄三、四年頃は芭蕉との交渉が多く、『猿蓑』の其角序の版下を書いている。この年五十九歳。芭蕉は四十七歳。「六十年」・「五十年」は、それぞれ「むそぢ」・「いそぢ」と読む。
「ともに夢中にして……」は、『荘子』斉物論の一節によったもの。二人とも夢のようなこの世を生きているが、この絵は、その夢にただよう姿をあらわしているの意。
「秋の暮」が季語で、秋の夕暮れの意。その情を生かした使い方になっている。ちなみに、「暮の秋」は晩秋の意。
「秋の暮れのたださえものさびしい中に、この画像のあるじはいつもむこ
う向きになっている。私にもさびしい秋の暮れなのだ。さあ、こちらを
向いてくれないか。そうして共に語り合おうではないか」
治療法きく耳二つ暮の秋 季 己