壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

羅生門

2009年10月12日 20時05分36秒 | Weblog
          辛未の秋、洛に遊びて、九条羅生門を
          過ぐるとて
        荻の穂や頭をつかむ羅生門     芭 蕉

 即興のたわぶれともいうべき発想である。もともとは和歌的な優雅な世界のものである荻の、秋風にそよぐ情景を俳諧の世界に移し、謡曲「羅生門」を下敷きとして鬼に結びつけ、春を秋に、しころを頭に転じたおかしさを味わいたい。

 「辛未(しんび)」は元禄四年(1692)の干支。
 「洛」は、洛陽が長く都であったことになぞらえて、わが国で京都をいう語。
 「羅生門」はもと羅城門と書き、平城京・平安京の外郭の正門。朱雀大路の南方正面にあり、北の朱雀門と対していた。平安京のそれは、東寺の西のところにあった。
 謡曲「羅生門」は、源頼光の臣、渡辺綱が春雨の降る夜、羅生門に赴き、楼上に棲む鬼に兜のしころを摑まれたが、その片腕を斬りおとすという筋で、この句はそれによって仕立てている。謡曲のもとになっていると思われる『平家物語』では、鬼女に髻(もとどり)を提げられることになっている。

 「頭」の読みは、『鹿島紀行』に「かしら」と、かなで表記しているので、それに従っておく。
 「荻(の穂)」は秋季。この句の場合、擬人的に用いている。
 「荻」は、イネ科の多年草で、海萱(うみがや)・浜荻(はまおぎ)などの名があり、多く水辺に生じ、芒に似た穂を出す。その荻の穂の風になびいたのが、鬼女の手のように頭にふれたのを、「頭をつかむ」といったのである。

    「羅生門のあたりを過ぎると、荻の穂がゆらりとなびいて頭にふれたが、
     場所が場所だけに、その感じは、あの渡辺綱につかみかかった鬼女の趣
     であった」


      体育の日の運動場がらんどう     季 己