壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秋天

2009年10月25日 20時08分34秒 | Weblog
        秋天の一翳もなき思ひなり     風 生 

「秋天」は、「秋の空」のこと。「女心と秋の空」のように、移ろいやすいもののたとえによく使う。しかし、俳句では、その澄明な奥深い色を秋の空の特色として詠みたいものである。「秋の天」ともいう。
 近代短歌にも、
        秋空は澄みきはまりて翳(かげ)もたず
          見はるかす海にただ一つの舟   佐佐木信綱
 とうたわれている。


          暮 立 (暮れに立つ)    白居易(はくきょい)
     黄昏独立佛堂前   黄昏(こうこん)独り立つ仏堂の前
     満地カイ花満樹蟬  地に満つるカイ花樹に満つる蟬
     大抵四時心総苦   大抵四時(たいていしいじ)心総べて苦しけれど
     就中腸断是秋天   就中(なかんずく)腸の断たれるは是れ秋天
       ※「カイ」は、木偏に鬼。“えんじゅ”のこと。

       たそがれに、ひとり仏堂の前に立つ。
       舞い散ったえんじゅの花が地面を覆い、樹という樹には蟬が鳴きしきる。
       およそ四季それぞれ、心にかなしみをさそうものだが、
       とりわけ、はらわたがちぎれるほどに悲しいのは、秋。

 白居易は、元和六年(811)、四十歳の時に母を亡くし、都から郷里に帰って喪に服した。この詩は、そのころ郷里にあっての作。
 この時期は、白居易の人生の上で、いわば最初の挫折にあたる。母の死という最大の不幸の上に、当時の政治状況も、白居易とは相容れない勢力の体制下にあった。政治家としての未来にも影がさしていたのである。
 郷里での日々も、それゆえ、平安とはいえ憂鬱で孤独なものであった。ひたすら憑かれたように読書に励んでいる。

 この詩の後半は、四季のうちで、もっとも悲しいのは秋だ、という。当たり前の感慨に過ぎない。しかし、白居易の悲秋は一味ちがうのだ。
 起句(第一句)は、いわばこの詩の舞台背景をなす。
 承句(第二句)が実はこの詩の眼目である。満地のカイ花、満樹の蟬と、調子よく、暗くなりつつある中に、そこいら中に白い花が散らばっている情景を描く。樹という樹に蟬の声。それは、盛大な、という形容詞がふさわしいような秋の景だ。
 ところが、情景を目に浮かべるとき、この中に立つ作者の孤独なすがたが同時に鮮明にあらわれてくることに気づく。花びらの散乱と蟬の鳴き声、それは清浄世界の中の読経の大合唱にも聞こえてくるようだ。
 このように見ると、むしろ平凡にも思われる結句(第四句)が、ぐっと重みをもって迫る心地がする。


      秋天の銀座 流離のおもひあり     季 己