壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

まくはうり

2009年06月15日 21時03分54秒 | Weblog
        まくは瓜をさなき息をあてて食ふ     蕪 城

 「まくは瓜」は、古くから栽培されている、瓜の代表的なもので、晩夏に、芳香を漂わせて黄熟する。果実は、丸・楕円・円筒形などがある。

        美濃の子と貪る美濃の甜瓜     誓 子

 とあるように、甜瓜(まくはうり)は、岐阜県真桑が産地として知られ、「まくはうり」の名がある。甜瓜は、真桑瓜・真桑・真瓜とも言う。

        我に似な二つに割れし真桑瓜     芭 蕉

 この句は、門人の之道(しどう)に与えた句である、と注記がある由。
 芭蕉に対する、之道の真摯な傾倒ぶりをまのあたりに見て、「我に似な」といったものであろう。
 ところで、「似な」であるが、文法の上からは「にるな」と読みたいところなのだが、句の調子から見て、「にな」と読ませたものかも知れない。
 ここには、真の精神を把握しないで、形の模倣に陥ることを戒める気持とともに、「たどりなき風雲に身を責め、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかり事とさへなれば、つひに無能無才にして此の一筋につながる」(幻住庵記)という生き方を貫いた、自己自身に対する述懐となっていると思われる。
 句の発想は、即興風である。もてなしとして席上に出された真桑瓜を契機としての発想であろう。元禄七年(1694)夏、伊賀上野での作といわれる。

 「二つに割れし真桑瓜」は、酷似するものについていう「瓜二つ」のたとえを踏まえているのだろう。このたとえは、すでに『毛吹草』の「世話」の部に、「うりをふたつにわりたるごとし」と見えている。

      「あなたは、私について熱心に俳諧を学んでおられるが、ここにある
       二つ割りの真桑瓜の双方が、全く相似ているようではいけない。
       どうか私に似ないで、あなた独自の道を進んでほしい」

 いま、東京・銀座の『画廊 宮坂』で、【Slow And Sure】展が開かれている。若き画家(廣田真知子・野村幸恵・湯浅ひろみ)たちのグループ展である。
 三人三様、それぞれのこだわりを持って、独自の道を歩んでおられるのが清々しい。今後も、おもねることなく、【ゆっくりと確実に】、ご自分の描きたいものを魂こめて描いていただきたい。どうか今の“こころ”を忘れずに!
 詳細は、『画廊 宮坂』のホームページをご覧下さい。
 20日(土)まで開かれているので、ぜひ、見るではなく観てやってください。


      広島のあの日あのとき夾竹桃     季 己

宗教法人

2009年06月14日 20時15分29秒 | Weblog
 よろこんで与える行為を「布施(ふせ)」という。
 布施の「布」は、布(し)くと読む。カーペットを床に布くように、世間に施(ほどこし)を布きめぐらすのが布施である。
 布施は、金品がなくても、また誰もが、いつ・どこでも出来る。これを「無財施(むざいせ)」という。
 無財施は、資財がなくても出来る布施、という意味だけではない。差し上げる行為も、また、相手の大きな喜びも、金額に換算できない絶対の価値であるから無財と呼ぶ。
 ところで、このような無財施とは何であるか。たとえば、やさしいほほえみ・あたたかい言葉やあたたかいまなざしなど、つまり、「和顔愛語(わげんあいご)」は、お金がなくても出来る。
 まだある。おもいやりは、物がなくても出来る。乗物の中などで、座席を譲るのにも資財は要らない。
 訪問客にも思い出に残るような、家庭や職場のよい雰囲気も、まごころがあれば出来るのだ。

 さて、最近、宗教法人が経営するラブホテルの休憩料が、話題(問題)になっている。経営者は“お布施”だと言い、税務当局は、税金逃れの脱税行為だと……。

 奈良県・富雄に霊山寺という、不思議な寺がある。リョウゼンジが正しいと思うのだが、レイザンジとふつう呼んでいるらしい。
 霊山寺は、美しい建物や仏像がたくさんあり、宣伝も懸命にやっているのだが、観光客があまり出かけて行かない。観光ルートのエア・ポケットなのかも知れない。

 だが、地元の人たちは、別の意味でお参りしている。そして、みな非常に満足して帰って来るという。
 とにかく、酒あり、料理あり、女あり、温泉あり、おまけにバラ園やタクシー会社があったり、ゴルフ練習場もあったり、それがみな、この寺の直営なのだそうだ。
 ご本尊をさらし者にして拝観料を取るだけが能ではないと悟ったのかどうか、多角経営に乗り出したのが、この霊山寺である。

 宗教法人法によると、いわゆる不特定多数の人たちを対象とする風俗営業は許されないが、特定少数の人を対象とすればいいらしい。つまり、お寺へ一歩でも入れば、誰でもその寺の信者という特定の人であり、寺からあふれ出ない限りは少数である――と、解釈すればいいわけだ。
 料理飲食の提供は、寺の強制ではいけないが、信者の要求であれば、保健所の許可と監督を受けるだけで、監督官庁である、県の教育委員会から文句を言われる筋合いはない。
 お風呂に入れても、お寺のお湯は、ただのその辺の銭湯とは違う、ありがたい霊験に浴する信仰のお湯だと解すれば、宗教行為のうちの教化活動にはいる。

 まさか、こんな都合のよい解釈をしたのではなかろうが、とにかくこの寺には、俗人の俗欲を満たしてくれる条件が、一通りそろっている。
 高野山や信貴山より、よほど割り切っていて、その点すっきりしている。まず何よりも便利である。遠くへ出かけなくとも、地元でこんなに遊べるのだから。
 この世の極楽、即身成仏の道場とは、こんなところをいうのだろう。


      紅富士やかんぽの宿といふところ     季 己

船を繋がず

2009年06月13日 20時56分42秒 | Weblog
        江 村 即 事      司 空 曙

    罷釣帰来不繋船    釣をやめ帰り来たって船を繋がず
    江村月落正堪眠    江村月落ちて正に眠るに堪えたり
    縱然一夜風吹去    縱然(たとい)一夜風吹き去るとも
    只在蘆花浅水邊    只だ蘆花浅水(ろかせんすい)の辺に在らん

     釣をやめにして戻ってきたが、かったるくて船を繋ぐ気にもなれぬ。
     川辺の村に月が落ちて、ちょうど眠るに好都合。
     たとい、夜のうちに風が吹き、船を吹き流してしまったとしても、
     どうせ、蘆(あし)の花の咲く、浅瀬にただよいつくだけのことさ。

 「江村」は、川のほとりの村、「即事」は、事にふれての作品、という意味。
 「堪」の、もとの語義は「たえしのぶ」、転じて、「ふさわしい、ちょうどよい」の意。
 「蘆花」は、芦の花。芦の花は、このように漢詩にも歌われ、はじめ紫に、次いで枯れ色に、老いては“わた”となって風に散ってゆく。風の強いところでは、往々に伝説を伴う、“片葉の芦”となっているのも風情がある。秋に咲く。

 司空曙が、長江のあたりを流浪していたころの作品であろうか。風まかせ波まかせの漁師の生活に託して、悠々自適の心境を歌っている。
 「朝早くから一日中、釣り糸をたれ、日が落ちて江村に帰ってきた。ちょうど月が落ちて、川も村も真っ暗。水の音が快く船をゆする。ままよ、船を繋ぐまでもない、このまま眠ってしまおう。もし、夜のうちに風に吹き流されたとしても、心配なことなど有りはしない。ただ、芦の花咲く浅瀬に吹き寄せられているだけのことさ」
 こう心の中でつぶやいている。その周りには、黒々と川の水が波打って、星の光にきらきらと輝いていたことだろう。暗闇の中で、釣り人は、目覚めたときに、朝日に映える真っ白い芦の花に囲まれていることを、心楽しく期待しているのかも知れない。

 この詩の眼目は、「船を繋がず」にある、と言われている。つまり、転句と結句の風に吹かれてただよう趣は、ここから導き出されるわけである。
 いかにも、ひょうひょうとした味わい、日が出れば釣をし、日が沈めば芦の花に囲まれて眠る。
 ここには世俗の、やれ出世だ、やれ宮仕えだ、という煩わしさはない。もちろん、正義の人が罷免され、不正義の人が大手を振って歩く、などという悪政とも無縁の、別の天地があるのである。作者にとっては、桃源郷ともいえる天地が……。


      新緑のなか水晶の念珠ゆく     季 己

滝に籠る

2009年06月12日 22時57分08秒 | Weblog
        しばらくは滝に籠るや夏の初     芭 蕉

 『おくの細道』に、
 「二十余丁山を登つて滝有り。岩洞(がんとう)の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、うらみの滝と申し伝へ侍るなり」
 という文に続けて、「暫時(しばらく)は瀧にこもるや夏(げ)の初(はじめ)」とある。

 「夏(げ)」は、夏安居(げあんご)・夏行(げぎょう)・夏籠(げごもり)ともいい、仏家における夏の籠り修行のこと。
 陰暦四月十六日から七月十五日までの九十日間、一歩も外に出ず一室に籠り、“精進潔斎”して読経などの修行をする。托鉢などに出ると、地上の虫けらを踏んで、殺生になるからである。

 在家でもこの期間、お寺さんに同調して、酒やたばこ・肉類を断つ奇特な人がある。これを夏断(げだち)、仏前に上げるお経を夏経(げぎょう)、供花を夏花(げばな)という。
 この修行に入るのをのを夏入(げい)り・夏(げ)に入(い)るといい、修行を解くのを解夏(げげ)という。
 特に古句を読む場合、「夏に入る」を四音に読ませている場合は、立夏ではなくて、安居に入ったことなので、気をつけている。
 「夏の初」とは、夏安居に入る初めのこと。

 「滝」は、裏見の滝。一名、荒沢の滝、阿含(あごん)の滝ともいい、古くは、滝の裏道の傍らに、行者の籠堂のようなものがあったらしく、滝の裏へ潜って見るので、裏見の滝の名がある。
 明治三十五年の暴風雨で、今は形が変わったが、なお裏から見ることができる。
 「滝に籠る」とは、いわゆる滝行ではなく、滝の落水の裏側に身を入れたことを、夏籠にひっかけて言ったものであろう。

 芭蕉一行が裏見の滝を訪れたのは、四月一日と『おくの細道』にはあるが、同行した曽良の『随行日記』には、
        ウラ見ノ瀧、ガンマンガ淵見巡、
 と記され、四月二日に訪ねたことになっている。
 含満(がんまん)が淵も、裏見の滝と同じく、山岳信仰の神聖な行場である。かつて大日堂がここに建ち、裏見の滝と同様に不動明王が祀られていたという。今でも、苔むした石仏が無数に並び、時の流れが止まったような、厳粛な空気に包まれている。

        ナウマクサンマンダ バザラダン センダンマカロシヤダ
        ソワタヤ ウンタラタ カンマン

 これは、不動明王の慈救呪(じくのしゅ)であるが、この「カンマン」が、含満が淵の「ガンマン」である。また、ここには、空海が「カンマンブロオン」と唱えたところ、不動明王が出現したという不動岩がある。
 芭蕉が、裏見の滝、含満が淵を訪れた理由が、なんとなくわかる気がする。

       「こうして滝の裏にひそみ入っていると、まことに俗塵を離れた
        清々しい気分になってくる。しばらくの間だけでも、滝の裏側
        に籠り、折からの夏籠に入った行者たちにあやかり、滝籠りの
        行のまねごとでもしてみよう」


      夏花とも供花ともおもふ太宰の忌     季 己

蛙飛び込む水の音

2009年06月11日 23時09分59秒 | Weblog
 芭蕉が、江戸深川の庵にいた頃のことである。
 ある日のこと、芭蕉、参禅の師である仏頂和尚が、弟子の六祖五兵衛をつれて庵を訪ねた。
 五兵衛は芭蕉に、「寂びたよいお庭だが、この閑かな庭や草木の仏法は、いかがなものであるか」と問うた。
 芭蕉は瞬時に、「今の時点をふまえて、いま、あなたの人生の風光はどのようなものか」というように解した。
 そうして、たんたんとして、「葉々(ようよう)、大底(だいてい)は大、小底は小」と答えた。つまり、「閑かな庭や草木」を受け、草木の葉の大小それぞれが、それなりに生き生きしているとおり、いずれにも仏法が宿っている、ということだろう。

 すると、「今日のこと、いかに」と仏頂和尚。
 五兵衛と芭蕉の問答が、《閑庭草木》中心の遊びや観念に流れるのを抑えての発言であろう。
 芭蕉は心得て、「雨過ぎて青苔湿(うるお)う」と転じた。ちょうど雨が上がって庭の苔も、しっとりと露を含んで青々としている、と目前の実景で、我が“胸中の山水”を語ったのだ。
 西国観音霊場の第七番、岡寺のご詠歌にも、
        けさみれば つゆおかでらの 庭のこけ
          さながらるりの 光なりけり
 とある。
 庭の苔は、「世間虚仮(せけんこけ)」に通じる。この世においては、すべてが移り変わっていく虚(むな)しさばかりで、真実なるものはない。雨は降るが、必ず止むときがある。無常(情)の雨に打たれ、雨に湿って苔は瑠璃(るり)の光を放つではないか。聖徳太子のいわれる「世間虚仮 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」そのままの景観だ。
 芭蕉は、「苔(虚仮)」の虚無性を克服して、充実した「青苔湿う」の心を伝えたのである。

 しかし、仏頂和尚はまだ許さない。
 「青苔いまだ生ぜず、春雨いまだ到らざるときいかに」と、苔や雨の相対観念に分かれる前の、絶対の“いのち”を求める。
 芭蕉は、自分の絶対境を、やはり目前の景観で答える。
 「蛙飛び込む水の音」と……。


      また空を見あぐる能登の金魚売     季 己

一つ葉

2009年06月10日 20時19分42秒 | Weblog
        夏来てもただ一つ葉の一葉かな     芭 蕉

 「一つ葉(ひとつば)」は、イシノカワ・イワグミなどともいい、暖地の山間の岩の上や木陰に群生する、常緑のシダ類多年草である。
 茶褐色の根茎が這い、ところどころに葉柄を立て細長い葉を一枚ずつつける。一般のシダ類のように、葉が細かく羽状に分かれていないので、この名がある。葉の表面は、厚い革質で濃緑色、裏面は、胞子ができると褐色となる。
 葉は一枚ずつ生じ、冬も枯れないが春夏に増えもしない。そこに一種の寂しさの漂う植物で、そこが発想の契機となったものと思われる。

 一つ葉は、持てるただ一枚の葉をかざして、春夏秋冬、変わらぬ姿で立っている。見つめているうちに、その寂しい姿に愛情を覚えてくる。この愛情は、自身の姿を知らず知らずのうちに、一つ葉の中に感じ取ったためかも知れない。こういう愛情が基調となって、その「一つ葉」の名に哀れな興を覚えての発想であろう。
 「俳句は愛情」と、しみじみ思う。

 伝本により、「一葉かな」を「一つかな」とするものがある。そのため、そのいずれをとるか、論の多いところである。
 「一つかな」をとる説は、芭蕉生前の集である『曠野(あらの)』に「一つかな」とあるのを証とし、「一葉かな」をとる説は、『泊船集』の注記をを論拠とする。
 「一葉かな」のほうが、視覚的にも聴覚的にも自然な発想である、と思う。

     「夏の山路をこうして辿りつつ眺めると、あたりの草は、青々と
      葉を茂らせているのに、一つ葉だけは、以前と同様、少しも変
      わらぬ一葉きりのわりなき姿で、そこに心惹かれる哀れを覚え
      たことだ」


      一つ葉にひと日の風の独り旅     季 己

椿象

2009年06月09日 22時34分15秒 | Weblog
 東京の梅雨入りも、秒読み段階となった。
 梅雨時から真夏にかけては、昆虫の天下である。
 昆虫の世界も弱肉強食の世界であるから、食うか食われるかの、生存競争を生き抜くためには、虫それぞれに、いろいろな工夫を凝らしている。
 これは、積極的に敵を倒すための武器ではない。人間とは違って、専守防衛の手段として、昆虫の中には、非常に臭いにおいを放つものがいる。

 よく知られているのは、カメムシの仲間だ。
 ところで、カメムシは、漢字でどう書くか、ご存じだろうか。「亀虫」、もちろん正解だが、タイトルの「椿象」と書いて、カメムシと読む。
 カメムシは、蝉やウンカ・ヨコバイなどと同じ半翅目に属する昆虫である。翅も弱く、動作もとろいこの虫に、神様が与えてくれた強力な武器が、その悪臭である。
 カメムシにもいろいろあるが、まず、たいていのカメムシは、悪臭を発するものと、用心しておいた方がよい。まだ世間知らずなトカゲの子供が、うっかりカメムシを銜えたものなら、舌を出したり引っ込めたり、ひどい目にあったという表情をして、以後はいっさいカメムシには振り向こうとはしない、というから面白い。

 柚(ゆず)や枳殻(からたち)などの葉を食い荒らす、ナミアゲハやクロアゲハなどの幼虫を、柚子坊という。柚子坊も、この毒ガスという専守防衛の強力な武器を持っていることでは、カメムシに劣らない。
 ふつう、蝶や蛾の幼虫は、毒を持った毛を体中いっぱいに生やしていて、敵から身を守っている。柚子坊の仲間は、毒毛を生やさない裸ん坊なので、有害な敵に触れると、頭からY字型の袋角をにょっきりと出して、蜜柑が腐ったような強烈な臭気を放つ液体を分泌するのである。
 カメムシは一生カメムシのままであるが、カメムシに負けない臭気を放つ柚子坊は、やがて脱皮して、優雅な揚羽蝶になるのだから、これまた面白い。


      ががんぼの手すり脚すり退きにけり     季 己

毛虫焼く

2009年06月08日 22時40分38秒 | Weblog
        毛虫焼く棒をかならず縁の下     あけ烏

 全身が毛で覆われた蝶や蛾などの幼虫を「毛虫」という。
 やっと若葉となった庭木や、丹精こめた花壇などに発生して、みるみるうちに葉を傷だらけにしてしまう。醜悪で貪欲な姿はぞっとするほどいやらしいが、やがて美しい成虫に変わるための生命の必死の営みである。
 全身をうちふるわせて懸命に葉を噛むようすには、崇高な感じさえ、しないでもない。

        毛虫焼く火のめらめらと美しき     夕 爾        

 ドクガ科・カレハガ科・イラガ科などの毛虫には毒毛があり、人がこれに触れると皮膚炎を起こしたりする。近ごろでは、アメリカシロヒトリのような毒毛をもたないけれども、大発生して植物に大きな被害を与えるものもいる。
 毛虫が最も発生するのは、六月頃で、これを駆除するために強力な殺虫剤もできている。昔は棒の先に火を挟んで、拡がらないうちに焼き殺していた。火焰の中に、身もだえしながらぽたぽたと落ちてゆく無数の“いのち”には、凄惨な“美”がある。


      毛虫焼くをんなの性を阿修羅展     季 己

夕河鹿

2009年06月07日 22時59分58秒 | Weblog
        夕河鹿一人の旅は独り酌む     春 一

 山深い渓流で、しかも水のきれいな流れに棲む蛙を、「河鹿(かじか)」あるいは「河鹿蛙」という。
 自然環境の破壊が急速に進んだ今日では、滅多にその姿が見られなくなってしまった。
 雌は体長八センチほどで、雄はその半分くらいしかない。体は灰色と茶色の混じったような色で、腹は白に近い。
 雄はその小さな体からは想像できないような、澄んだ響き渡る声をあげて鳴く。「河鹿笛」という。水音をかき消すほど高い声で鳴きつづける。
 夕方、一匹が鳴き出すとそれに誘われて一斉に鳴き出す。「夕河鹿」である。

 平城京が栄えていた頃、佐保川には、夏は河鹿が鳴き、冬は千鳥の声がした。
 いま、その川を横切って、民家の中を野面へ延びる道が、一筋残っている。ありし日の、一条大路の名残である。
 平城の宮跡の土に眠っていた、そのかみの人の営みは、新鮮な驚異に満ちてわれわれの目をうばうが、日の下に残されて、忘却の幾世紀を生きながらえてきた川や道は、痛ましくも疲れ果てた姿である。

 四十年ほど前、初めて立ち寄ったときから、海竜王寺は荒れていた。数年前に訪れたとき、門や塀が昔のままなのを見て、何となくほっとした。
 変人のまだ生まれていない昭和十六年の秋、堀辰雄が、佐保路を歩いてこの寺に入った。
 堀辰雄は、当時、見る影もなく荒れ果てていた西金堂の中を、櫺子(れんじ)ごしに覗いたり、壁の落書きを眺めたりして、
     「女の来るのを待ちあぐねてゐる古の貴公子のやうにわれと
      わが身を描いたりしながら」(『十月』)、
 小一時間さまよっていた。


      荒れ寺の時とどめたる青蛙     季 己

紫陽花

2009年06月06日 23時03分05秒 | Weblog
        紫陽花や藪を小庭の別座敷     芭 蕉

 最後の旅への出立に際して、子珊(しさん)の別屋で催された餞別の会の、歌仙の発句である。
 子珊の別座敷の趣を褒めて挨拶句としたもの。いたずらに数寄をこらさず、簡素で物静かな小庭であるという気持を「藪を小庭の」という描写を通して詠んだものであろう。
 紫陽花(あぢさゐ)の花が、その庭とその座の気分にまことによく調和し、軽やかな詠みぶりのうちに、掬すべき滋味がある。

 この時、門人たちが俳諧をたずねたものに答えた芭蕉のことばは、『別座鋪』の序にしるしとどめられているが、「軽み」を説いたものとして名高い。
 餞別の会が開かれたのは、元禄七年五月のことである。『別座鋪』の子珊の序には、

    翁近く旅行思ひ立ち給へば、別屋に伴ひ、春は帰庵の事を打ちなげき、
    さて俳諧を尋ねけるに、翁「今思ふ体(てい)は、浅き砂川を見るごとく、  
    句の形、付心(つけごころ)ともに軽(かろ)きなり。其の所に至りて意味
    あり」と侍る。いづれも感じ入りて、及ばずも此の流れを慕ふ折ふし、庭の
    夏草に発句を乞うて、咄(はな)しながら歌仙終りぬ。

 とある。子珊は、江戸深川の人で、芭蕉晩年の門人であるが、氏名未詳である。

 「藪を小庭の」は、藪をそのまま小庭の趣にしたさまの意。「別座敷」は、離れになった座敷。
 「紫陽花」が季語で夏。「紫陽花」が季節感をあらわすだけでなく、花や葉というような形状すべてを通してこの場を生かす働きをしている発想。

     「餞別の会が催されたこの別座敷は、ことさらに作りかまえたところ
      がなく、藪をそのまま小庭に取り入れた簡素なもので、ちょうど今
      は紫陽花が花をつけて、ものさびた趣を加えていることだ」


      紫陽花の人待つ彩に夕深む     季 己

詩人の眼

2009年06月05日 21時06分05秒 | Weblog
        卯の花に葦毛の馬の夜明けかな     許 六

 初夏の夜明け方、まだほの暗い中を、葦毛の馬にまたがって旅立とうとすると、ふと垣根のあたりに白く咲いた卯の花に気がついた、という意であろう。
 初夏の早朝の清爽な気分が、的確にとらえられている。
 『去来抄』によると、去来はかねて同じ趣向で句を案じ、「有明の花に乗込」まできて詞につまっていたが、その後、この許六(きょりく)の句を見て、自分の不才のほどを嘆いたという。
 夜明けの薄暗い中にとらえた真っ白い卯の花、それだけで既に一つの詩的世界をつくりあげているが、その場に葦毛の馬を取り合わせたのは、まことに大胆な発想ではある。
 しかし、去来が『旅寝論』に指摘しているように、曲輪(くるわ)の外、つまり慣習的な連想の枠外から求めた取り合わせの素材でありながら、見事に成功しているのである。

 其角(きかく)の「鶯の身をさかさまに初音かな」の句について去来は、其角は表現の技巧を重んずるあまり、事実を無視しているといい、許六は、「身をさかさまに、と見出したる眼こそあっぱれ、近年の秀逸」だと言ったという、有名な論争があるが、許六は、たしかに詩人の眼の持ち主であった。季語は「卯の花」で夏。


      梅雨空のノアの方舟大手町     季 己

わが恋まさる

2009年06月04日 20時19分43秒 | Weblog
                鏡 王 女        
        神奈備の 磐瀬の森の 呼子鳥
          いたくな鳴きそ わが恋まさる  (『萬葉集』巻八)

 鏡王女(かがみのおほきみのむすめ)は、鏡王の娘ということで、額田王(ぬかだのおほきみ)の姉であり、はじめ天智天皇の寵愛を受け、のち藤原鎌足の正妻となった。
 彼女の墓が、忍坂(おっさか)の舒明天皇陵の域内にあるので、天皇の皇女か皇妹であるという説もあるが、そうだとすれば鏡女王とあるのが普通であろう。
 日本紀には鏡姫王とある。懐妊中、鎌足に下され、その正妻となった。そのとき生まれた不比等(ふひと)は、皇胤だったということになる。
 この歌はいったい、どちらへの思いを詠んだものなのだろうか。

 「神奈備(かむなび)」とは、神の山ということで、神霊の依る木をたてて、その山に神を招いて祀った所である。
 大和では、飛鳥の神奈備、竜田の神奈備、三輪の神奈備が有名だったが、ここの神奈備は、竜田の神奈備と思われるが、諸説がある。

 神奈備の磐瀬の杜で、鳴いている呼子鳥よ。そんなにひどく鳴いてくれるな。わたしの恋いこがれる心が、いっそう強くなるではないか……

 呼子鳥とは「郭公(くわっこう)」のこと。
 初夏に南方より渡来する夏鳥で、夏が深まると高原や高山に移り、やがて秋になると再び南へ帰って行く。
 ホトトギス科の鳥で、雌雄同じ色で背面は暗灰色、風切羽は褐色じみていて、腹面には黒い筋が走っている。
 カッコウ、カッコウと丸くはずむような美しい声なので、人々に親しみを感じさせる。
 呼子鳥と名付けたのは、鳴き声を「吾子吾子(あこあこ)」と、わが子を呼んでいるのだと、聞きなしたからであろう。「ほととぎす」を「郭公」などと書いたりするのは、「くわっこう」と「時鳥(ほととぎす)」とを混同したからである。
 「くわっこう」は、「時鳥」より早くから鳴き出し、あとまで鳴いている。鳥の声に古代の日本人が注意を引かれたのは、鑑賞の対象だったのではない。むしろ鳥によっては、魂を誘い出すものとして恐れられていた。

 これは、呼子鳥に呼びかけた歌で、長く訪れて来ない恋人を恨む心が裏にこもっているように感じられる。磐瀬の森の時鳥はほかにも歌われ、神域の幽邃さのなかに鳥の声を聞くことが、ひどく身にしみて感銘されたのである。
 ことにそれが晩春・初夏の季節に、含み声で鳴く呼子鳥だったことが、いっそう感傷をそそったのであろう。「わが恋まさる」の結句は、恋心がいっそうひたひたと胸にみなぎってくるということで、はなはだ率直の語気である。
 彼女は額田王の姉であったから、額田王の歌にも共通な、言語に対する鋭敏さがうかがわれ、額田王の歌よりももっと素直で才気の目立たぬところがある。また、時代も万葉上期だから、その頃の純粋な響き・語気を伝えている。


      郭公や思ひたつたる阿修羅展     季 己

降り残してや

2009年06月03日 20時25分30秒 | Weblog
        五月雨の降り残してや光堂     芭 蕉

 この句も、『おくのほそ道』旅中の作ではなく、執筆時の作であるので、だいたい元禄六年(1693)ごろの制作かと考える。
 『おくのほそ道』に、
    「兼ねて耳驚かしたる二堂、開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は
     三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、玉の扉、風
     に破れ、金の柱、霜雪に朽ちて、既に退廃空虚の叢となるべきを、
     四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の
     記念(かたみ)とはなれり」
 とあって掲出。

 芭蕉自筆『おくの細道』には、「五月雨や年々降りて五百たび」とあり、また、そのとき「蛍火の昼は消えつつ柱かな」の句もつくっている。
 芭蕉の発想の底流に、長い年月の間、五月雨や風雪に耐えてきた光堂に対する、賛嘆の気持があったと思われる。この光堂に対してだけは、毎年の五月雨もはばかって降り残したのだろうか、よくぞまあ残っていてくれたなあ、と自然や時間の圧力に抵抗して――抵抗の傷跡を至る所にとどめながらも、生き残っている光堂を褒め、いたわるような気持が籠められている。

 「降り残してや」は、降らないでとり残す意でいったもの。「や」は疑問であるが、詠嘆の気持を含んでいる。
 「光堂」は、経堂とともに、本文で「二堂」と言っているものの一つで、金色堂ともいう。藤原清衡の建立で、天治元年(1124)に落成した。阿弥陀堂と葬堂とを兼ね、清衡・基衡・秀衡の全身ミイラと、忠衡(実は泰衡らしい)の首級が納められている。
 方三間宝形造りの堂の内外に金箔を施し、螺鈿(らでん)をちりばめて荘厳の美をつくし、光り輝くばかりであるので、この名がある。
 「四面新たに囲みて」云々は、建立後百八十年、鎌倉時代の正応元年(1288)、鎌倉七代将軍惟康親王が、執権北条貞時に命じて鞘堂を造り、その朽廃を防いだことを指す。

 なお、『おくのほそ道』に、「二堂開帳す」とあるが、曽良の『随行日記』には、「経堂ハ別当留守ニテ不開(あかず)」とあり、紀行本文に「三将の像」とあるのは、実は文殊菩薩・優塡(うてん)大王・善財童子の三像である。このことから見ても、『おくのほそ道』は事実の記録ではなく、あくまでも芭蕉の創作ということが知れよう。

 数年前の旅での感慨を思い起こしながら作った句で、季語は「五月雨」で夏の句である。「五月雨」は、現実の「五月雨」ではなく、幾代もの間を通じて、光堂の歴史とともに降り注いできた、芭蕉心中の「五月雨」である。しかし、その根底にあるのは、「五月雨」そのものの感触なのであって、それあるがために、句が力強く生きてきているのだと思う。


      さみだれて良寛像のあをみけり     季 己

名にしおはば

2009年06月02日 20時44分14秒 | Weblog
        老残のこと伝はらず業平忌     登四郎

 陰暦五月二十八日は、在原業平の忌日である。これを「業平忌」という。
 業平は、平城天皇の皇子阿保親王の第五子で、臣籍に降下し在原姓を賜り、中将になったので、在五中将と呼ばれた。したがって、「在五忌」ともいう。

 業平は、姿態容貌がみやびやかで優雅であり、のびのびと行動し、概して学才はなかったが、和歌の名手で六歌仙の一人であった。『伊勢物語』の「むかし、男」のモデルに擬せられている。その『伊勢物語』の一節を見てみよう。

    なほゆきて、武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。
    それを角田河(すみだがは)といふ。その河のほとりにむれゐて、
    「思ひやれば、かぎりなく、遠くもきにけるかな」と、わびあへるに、
    渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとす
    るに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折
    しも、しろき鳥の嘴(はし)と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水の
    うへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人知らず。
    渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
       名にしおはば いざこと問はむ 都鳥
         わが思ふ人は 在(あ)りやなしやと
    と、よめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 「角田河」は、今の東京都を流れる隅田川のことである。
 業平と思しき「むかし、男」が、京の都を脱出し、東海道を東へ東へ、隅田川のほとりの渡し場までやって来た。
 平安時代の承和二年(835)には、隅田川に常設していた渡し船が、政府の命により、倍の4艘に増発されたと『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』にある。
 「男」は、この渡し場を利用した際、隅田川に遊ぶ白い鳥の名を渡し守に問い、「名にしおはば」の有名な歌を残している。
    「都鳥という名を負い持つなら、さあ尋ねてみたい、都鳥よ。
       わたしが想う妻は、都に無事でいるかどうか」

 「名にしおはば」の「名に負ふ」は、名前として持つ、ということだが、単に名前だけでなく、その名にふさわしい実質を備えていることを意味として含んでいる。だから、この隅田川の「都鳥」の場合、本当にお前はその名にふさわしい鳥だと言えるのかという問いつめがある。
 もちろん、「都鳥」と名乗るなら、京都にいるのがふさわしいのに、という気持である。と同時にこの気持は、もともと京都にいるのがふさわしい自分が、こんな田舎まで来てしまった、という感情と二重になっている。
 折から下総へ渡る国境の舟中である。この川を渡ればさらに一段と都を遠ざかった国へ入ることになるのだ、という感情が、日暮れの不安によって一層かき立てられる。一行が流す涙は、単に都に残した妻を想って泣く涙ではなかろう。

 今の荒川区は古代、武蔵国豊島郡に属していた。隣接する北区の台地上に郡役所と、古代官道の施設である駅家(うまや)があった。
 下総国へ向かう道は、豊島の駅家を経て、“あらかわ”を通り、石浜(今の南千住3丁目、台東区橋場付近)あたりで隅田川を渡り、下総に入ったと考えられている。
 ということは、「むかし、男」が、「名にしおはば」の歌を詠んだ渡し場は、石浜あたりということになろう。


      業平忌 菓子司に掛かる相聞歌     季 己
 

自然と一体の境地

2009年06月01日 20時28分28秒 | Weblog
        田一枚植ゑて立ち去る柳かな     芭 蕉

 『おくのほそ道』本文には、殺生石の記事につづけて、
   「又清水流るるの柳は、芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
    此の所の郡守、故戸部某(こほうなにがし)の、『此の柳見せばや』
    など、折々にの給ひきこえ給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、
    けふ、この柳のかげにこそ、立ち寄り侍りつれ」
 とあって、この句を掲げる。
 したがって、この句の柳は、西行が、
        道のべに 清水流るる 柳かげ
          しばしとてこそ 立ちどまりつれ  (『新古今集』)
 と詠んだと伝え、謡曲の『遊行柳』にも出てくる、歌枕としての柳である。

 この句は、『おくのほそ道』の門出の所に掲げられている句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と同様、旅中でなく、『おくのほそ道』執筆時に作られたと思われる。
 また、「田一枚植ゑて立ち去る」は、その行為の主体をどうとるかをめぐって、いろいろな説がある。
 俳句実作者としては、「植ゑて」は早乙女、「立ち去る」は芭蕉ととりたい。また、「立ち去る」のも早乙女と解したのでは、この句の主体的感動が生きてこない。

 自分の敬慕している西行が、あの有名な歌を詠んだ柳がこれかと、木陰に立って物思いにふけっていた。その歌のごとく、「しばしとてこそ立ちどまりつれ」という気持ちでいたのに、思わず長い時間が経過していたという驚きである。
 発想の契機として西行の歌があることはもちろんだが、眼前の早乙女の営みによって、具象化された時間として把握されたところに、俳諧の味が生きてくるのである。
 田を植えているのは早乙女であるが、それを自分が見ており、その景の中に我を忘れて時を過ごしていた気持から言えば、自も他もない境地であり、いわば自分自身が田を植えて立ち去るという気持になることも、決して不自然ではない。
 早乙女もなく、自己もなく、田を植えるという働きそのものが直に感じられているわけで、そうした感合滲透に達した境地にあって、「田一枚植ゑて立ち去る」という自他合一の発想がなされているのである。
 自他合一、つまり、自然と一体の境地になれたとき、名句が生まれるようである。
 季語は「田植う」で夏。「柳」は春の季語であるが、ここでは季語としては働かない。

    西行法師があの「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまり
   つれ」の歌を詠まれた柳の蔭に、念願かなって今日、自分も立ち寄ること
   ができた。ほんの「しばし」と思って佇んでいるうちに、ふと気がついて
   みると、早乙女が、あたりの田を一枚植え終えてしまっていた。
    柳になお心惹かれるものがあるのだが、今は思い切りをつけて立ち去る
   ことである。


      万緑やストレスはみな木の中へ     季 己