壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

名にしおはば

2009年06月02日 20時44分14秒 | Weblog
        老残のこと伝はらず業平忌     登四郎

 陰暦五月二十八日は、在原業平の忌日である。これを「業平忌」という。
 業平は、平城天皇の皇子阿保親王の第五子で、臣籍に降下し在原姓を賜り、中将になったので、在五中将と呼ばれた。したがって、「在五忌」ともいう。

 業平は、姿態容貌がみやびやかで優雅であり、のびのびと行動し、概して学才はなかったが、和歌の名手で六歌仙の一人であった。『伊勢物語』の「むかし、男」のモデルに擬せられている。その『伊勢物語』の一節を見てみよう。

    なほゆきて、武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。
    それを角田河(すみだがは)といふ。その河のほとりにむれゐて、
    「思ひやれば、かぎりなく、遠くもきにけるかな」と、わびあへるに、
    渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとす
    るに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折
    しも、しろき鳥の嘴(はし)と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水の
    うへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人知らず。
    渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
       名にしおはば いざこと問はむ 都鳥
         わが思ふ人は 在(あ)りやなしやと
    と、よめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 「角田河」は、今の東京都を流れる隅田川のことである。
 業平と思しき「むかし、男」が、京の都を脱出し、東海道を東へ東へ、隅田川のほとりの渡し場までやって来た。
 平安時代の承和二年(835)には、隅田川に常設していた渡し船が、政府の命により、倍の4艘に増発されたと『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』にある。
 「男」は、この渡し場を利用した際、隅田川に遊ぶ白い鳥の名を渡し守に問い、「名にしおはば」の有名な歌を残している。
    「都鳥という名を負い持つなら、さあ尋ねてみたい、都鳥よ。
       わたしが想う妻は、都に無事でいるかどうか」

 「名にしおはば」の「名に負ふ」は、名前として持つ、ということだが、単に名前だけでなく、その名にふさわしい実質を備えていることを意味として含んでいる。だから、この隅田川の「都鳥」の場合、本当にお前はその名にふさわしい鳥だと言えるのかという問いつめがある。
 もちろん、「都鳥」と名乗るなら、京都にいるのがふさわしいのに、という気持である。と同時にこの気持は、もともと京都にいるのがふさわしい自分が、こんな田舎まで来てしまった、という感情と二重になっている。
 折から下総へ渡る国境の舟中である。この川を渡ればさらに一段と都を遠ざかった国へ入ることになるのだ、という感情が、日暮れの不安によって一層かき立てられる。一行が流す涙は、単に都に残した妻を想って泣く涙ではなかろう。

 今の荒川区は古代、武蔵国豊島郡に属していた。隣接する北区の台地上に郡役所と、古代官道の施設である駅家(うまや)があった。
 下総国へ向かう道は、豊島の駅家を経て、“あらかわ”を通り、石浜(今の南千住3丁目、台東区橋場付近)あたりで隅田川を渡り、下総に入ったと考えられている。
 ということは、「むかし、男」が、「名にしおはば」の歌を詠んだ渡し場は、石浜あたりということになろう。


      業平忌 菓子司に掛かる相聞歌     季 己