壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

降り残してや

2009年06月03日 20時25分30秒 | Weblog
        五月雨の降り残してや光堂     芭 蕉

 この句も、『おくのほそ道』旅中の作ではなく、執筆時の作であるので、だいたい元禄六年(1693)ごろの制作かと考える。
 『おくのほそ道』に、
    「兼ねて耳驚かしたる二堂、開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は
     三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、玉の扉、風
     に破れ、金の柱、霜雪に朽ちて、既に退廃空虚の叢となるべきを、
     四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の
     記念(かたみ)とはなれり」
 とあって掲出。

 芭蕉自筆『おくの細道』には、「五月雨や年々降りて五百たび」とあり、また、そのとき「蛍火の昼は消えつつ柱かな」の句もつくっている。
 芭蕉の発想の底流に、長い年月の間、五月雨や風雪に耐えてきた光堂に対する、賛嘆の気持があったと思われる。この光堂に対してだけは、毎年の五月雨もはばかって降り残したのだろうか、よくぞまあ残っていてくれたなあ、と自然や時間の圧力に抵抗して――抵抗の傷跡を至る所にとどめながらも、生き残っている光堂を褒め、いたわるような気持が籠められている。

 「降り残してや」は、降らないでとり残す意でいったもの。「や」は疑問であるが、詠嘆の気持を含んでいる。
 「光堂」は、経堂とともに、本文で「二堂」と言っているものの一つで、金色堂ともいう。藤原清衡の建立で、天治元年(1124)に落成した。阿弥陀堂と葬堂とを兼ね、清衡・基衡・秀衡の全身ミイラと、忠衡(実は泰衡らしい)の首級が納められている。
 方三間宝形造りの堂の内外に金箔を施し、螺鈿(らでん)をちりばめて荘厳の美をつくし、光り輝くばかりであるので、この名がある。
 「四面新たに囲みて」云々は、建立後百八十年、鎌倉時代の正応元年(1288)、鎌倉七代将軍惟康親王が、執権北条貞時に命じて鞘堂を造り、その朽廃を防いだことを指す。

 なお、『おくのほそ道』に、「二堂開帳す」とあるが、曽良の『随行日記』には、「経堂ハ別当留守ニテ不開(あかず)」とあり、紀行本文に「三将の像」とあるのは、実は文殊菩薩・優塡(うてん)大王・善財童子の三像である。このことから見ても、『おくのほそ道』は事実の記録ではなく、あくまでも芭蕉の創作ということが知れよう。

 数年前の旅での感慨を思い起こしながら作った句で、季語は「五月雨」で夏の句である。「五月雨」は、現実の「五月雨」ではなく、幾代もの間を通じて、光堂の歴史とともに降り注いできた、芭蕉心中の「五月雨」である。しかし、その根底にあるのは、「五月雨」そのものの感触なのであって、それあるがために、句が力強く生きてきているのだと思う。


      さみだれて良寛像のあをみけり     季 己