江 村 即 事 司 空 曙
罷釣帰来不繋船 釣をやめ帰り来たって船を繋がず
江村月落正堪眠 江村月落ちて正に眠るに堪えたり
縱然一夜風吹去 縱然(たとい)一夜風吹き去るとも
只在蘆花浅水邊 只だ蘆花浅水(ろかせんすい)の辺に在らん
釣をやめにして戻ってきたが、かったるくて船を繋ぐ気にもなれぬ。
川辺の村に月が落ちて、ちょうど眠るに好都合。
たとい、夜のうちに風が吹き、船を吹き流してしまったとしても、
どうせ、蘆(あし)の花の咲く、浅瀬にただよいつくだけのことさ。
「江村」は、川のほとりの村、「即事」は、事にふれての作品、という意味。
「堪」の、もとの語義は「たえしのぶ」、転じて、「ふさわしい、ちょうどよい」の意。
「蘆花」は、芦の花。芦の花は、このように漢詩にも歌われ、はじめ紫に、次いで枯れ色に、老いては“わた”となって風に散ってゆく。風の強いところでは、往々に伝説を伴う、“片葉の芦”となっているのも風情がある。秋に咲く。
司空曙が、長江のあたりを流浪していたころの作品であろうか。風まかせ波まかせの漁師の生活に託して、悠々自適の心境を歌っている。
「朝早くから一日中、釣り糸をたれ、日が落ちて江村に帰ってきた。ちょうど月が落ちて、川も村も真っ暗。水の音が快く船をゆする。ままよ、船を繋ぐまでもない、このまま眠ってしまおう。もし、夜のうちに風に吹き流されたとしても、心配なことなど有りはしない。ただ、芦の花咲く浅瀬に吹き寄せられているだけのことさ」
こう心の中でつぶやいている。その周りには、黒々と川の水が波打って、星の光にきらきらと輝いていたことだろう。暗闇の中で、釣り人は、目覚めたときに、朝日に映える真っ白い芦の花に囲まれていることを、心楽しく期待しているのかも知れない。
この詩の眼目は、「船を繋がず」にある、と言われている。つまり、転句と結句の風に吹かれてただよう趣は、ここから導き出されるわけである。
いかにも、ひょうひょうとした味わい、日が出れば釣をし、日が沈めば芦の花に囲まれて眠る。
ここには世俗の、やれ出世だ、やれ宮仕えだ、という煩わしさはない。もちろん、正義の人が罷免され、不正義の人が大手を振って歩く、などという悪政とも無縁の、別の天地があるのである。作者にとっては、桃源郷ともいえる天地が……。
新緑のなか水晶の念珠ゆく 季 己
罷釣帰来不繋船 釣をやめ帰り来たって船を繋がず
江村月落正堪眠 江村月落ちて正に眠るに堪えたり
縱然一夜風吹去 縱然(たとい)一夜風吹き去るとも
只在蘆花浅水邊 只だ蘆花浅水(ろかせんすい)の辺に在らん
釣をやめにして戻ってきたが、かったるくて船を繋ぐ気にもなれぬ。
川辺の村に月が落ちて、ちょうど眠るに好都合。
たとい、夜のうちに風が吹き、船を吹き流してしまったとしても、
どうせ、蘆(あし)の花の咲く、浅瀬にただよいつくだけのことさ。
「江村」は、川のほとりの村、「即事」は、事にふれての作品、という意味。
「堪」の、もとの語義は「たえしのぶ」、転じて、「ふさわしい、ちょうどよい」の意。
「蘆花」は、芦の花。芦の花は、このように漢詩にも歌われ、はじめ紫に、次いで枯れ色に、老いては“わた”となって風に散ってゆく。風の強いところでは、往々に伝説を伴う、“片葉の芦”となっているのも風情がある。秋に咲く。
司空曙が、長江のあたりを流浪していたころの作品であろうか。風まかせ波まかせの漁師の生活に託して、悠々自適の心境を歌っている。
「朝早くから一日中、釣り糸をたれ、日が落ちて江村に帰ってきた。ちょうど月が落ちて、川も村も真っ暗。水の音が快く船をゆする。ままよ、船を繋ぐまでもない、このまま眠ってしまおう。もし、夜のうちに風に吹き流されたとしても、心配なことなど有りはしない。ただ、芦の花咲く浅瀬に吹き寄せられているだけのことさ」
こう心の中でつぶやいている。その周りには、黒々と川の水が波打って、星の光にきらきらと輝いていたことだろう。暗闇の中で、釣り人は、目覚めたときに、朝日に映える真っ白い芦の花に囲まれていることを、心楽しく期待しているのかも知れない。
この詩の眼目は、「船を繋がず」にある、と言われている。つまり、転句と結句の風に吹かれてただよう趣は、ここから導き出されるわけである。
いかにも、ひょうひょうとした味わい、日が出れば釣をし、日が沈めば芦の花に囲まれて眠る。
ここには世俗の、やれ出世だ、やれ宮仕えだ、という煩わしさはない。もちろん、正義の人が罷免され、不正義の人が大手を振って歩く、などという悪政とも無縁の、別の天地があるのである。作者にとっては、桃源郷ともいえる天地が……。
新緑のなか水晶の念珠ゆく 季 己