壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

宗教法人

2009年06月14日 20時15分29秒 | Weblog
 よろこんで与える行為を「布施(ふせ)」という。
 布施の「布」は、布(し)くと読む。カーペットを床に布くように、世間に施(ほどこし)を布きめぐらすのが布施である。
 布施は、金品がなくても、また誰もが、いつ・どこでも出来る。これを「無財施(むざいせ)」という。
 無財施は、資財がなくても出来る布施、という意味だけではない。差し上げる行為も、また、相手の大きな喜びも、金額に換算できない絶対の価値であるから無財と呼ぶ。
 ところで、このような無財施とは何であるか。たとえば、やさしいほほえみ・あたたかい言葉やあたたかいまなざしなど、つまり、「和顔愛語(わげんあいご)」は、お金がなくても出来る。
 まだある。おもいやりは、物がなくても出来る。乗物の中などで、座席を譲るのにも資財は要らない。
 訪問客にも思い出に残るような、家庭や職場のよい雰囲気も、まごころがあれば出来るのだ。

 さて、最近、宗教法人が経営するラブホテルの休憩料が、話題(問題)になっている。経営者は“お布施”だと言い、税務当局は、税金逃れの脱税行為だと……。

 奈良県・富雄に霊山寺という、不思議な寺がある。リョウゼンジが正しいと思うのだが、レイザンジとふつう呼んでいるらしい。
 霊山寺は、美しい建物や仏像がたくさんあり、宣伝も懸命にやっているのだが、観光客があまり出かけて行かない。観光ルートのエア・ポケットなのかも知れない。

 だが、地元の人たちは、別の意味でお参りしている。そして、みな非常に満足して帰って来るという。
 とにかく、酒あり、料理あり、女あり、温泉あり、おまけにバラ園やタクシー会社があったり、ゴルフ練習場もあったり、それがみな、この寺の直営なのだそうだ。
 ご本尊をさらし者にして拝観料を取るだけが能ではないと悟ったのかどうか、多角経営に乗り出したのが、この霊山寺である。

 宗教法人法によると、いわゆる不特定多数の人たちを対象とする風俗営業は許されないが、特定少数の人を対象とすればいいらしい。つまり、お寺へ一歩でも入れば、誰でもその寺の信者という特定の人であり、寺からあふれ出ない限りは少数である――と、解釈すればいいわけだ。
 料理飲食の提供は、寺の強制ではいけないが、信者の要求であれば、保健所の許可と監督を受けるだけで、監督官庁である、県の教育委員会から文句を言われる筋合いはない。
 お風呂に入れても、お寺のお湯は、ただのその辺の銭湯とは違う、ありがたい霊験に浴する信仰のお湯だと解すれば、宗教行為のうちの教化活動にはいる。

 まさか、こんな都合のよい解釈をしたのではなかろうが、とにかくこの寺には、俗人の俗欲を満たしてくれる条件が、一通りそろっている。
 高野山や信貴山より、よほど割り切っていて、その点すっきりしている。まず何よりも便利である。遠くへ出かけなくとも、地元でこんなに遊べるのだから。
 この世の極楽、即身成仏の道場とは、こんなところをいうのだろう。


      紅富士やかんぽの宿といふところ     季 己