壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

紫陽花

2009年06月06日 23時03分05秒 | Weblog
        紫陽花や藪を小庭の別座敷     芭 蕉

 最後の旅への出立に際して、子珊(しさん)の別屋で催された餞別の会の、歌仙の発句である。
 子珊の別座敷の趣を褒めて挨拶句としたもの。いたずらに数寄をこらさず、簡素で物静かな小庭であるという気持を「藪を小庭の」という描写を通して詠んだものであろう。
 紫陽花(あぢさゐ)の花が、その庭とその座の気分にまことによく調和し、軽やかな詠みぶりのうちに、掬すべき滋味がある。

 この時、門人たちが俳諧をたずねたものに答えた芭蕉のことばは、『別座鋪』の序にしるしとどめられているが、「軽み」を説いたものとして名高い。
 餞別の会が開かれたのは、元禄七年五月のことである。『別座鋪』の子珊の序には、

    翁近く旅行思ひ立ち給へば、別屋に伴ひ、春は帰庵の事を打ちなげき、
    さて俳諧を尋ねけるに、翁「今思ふ体(てい)は、浅き砂川を見るごとく、  
    句の形、付心(つけごころ)ともに軽(かろ)きなり。其の所に至りて意味
    あり」と侍る。いづれも感じ入りて、及ばずも此の流れを慕ふ折ふし、庭の
    夏草に発句を乞うて、咄(はな)しながら歌仙終りぬ。

 とある。子珊は、江戸深川の人で、芭蕉晩年の門人であるが、氏名未詳である。

 「藪を小庭の」は、藪をそのまま小庭の趣にしたさまの意。「別座敷」は、離れになった座敷。
 「紫陽花」が季語で夏。「紫陽花」が季節感をあらわすだけでなく、花や葉というような形状すべてを通してこの場を生かす働きをしている発想。

     「餞別の会が催されたこの別座敷は、ことさらに作りかまえたところ
      がなく、藪をそのまま小庭に取り入れた簡素なもので、ちょうど今
      は紫陽花が花をつけて、ものさびた趣を加えていることだ」


      紫陽花の人待つ彩に夕深む     季 己