夏来てもただ一つ葉の一葉かな 芭 蕉
「一つ葉(ひとつば)」は、イシノカワ・イワグミなどともいい、暖地の山間の岩の上や木陰に群生する、常緑のシダ類多年草である。
茶褐色の根茎が這い、ところどころに葉柄を立て細長い葉を一枚ずつつける。一般のシダ類のように、葉が細かく羽状に分かれていないので、この名がある。葉の表面は、厚い革質で濃緑色、裏面は、胞子ができると褐色となる。
葉は一枚ずつ生じ、冬も枯れないが春夏に増えもしない。そこに一種の寂しさの漂う植物で、そこが発想の契機となったものと思われる。
一つ葉は、持てるただ一枚の葉をかざして、春夏秋冬、変わらぬ姿で立っている。見つめているうちに、その寂しい姿に愛情を覚えてくる。この愛情は、自身の姿を知らず知らずのうちに、一つ葉の中に感じ取ったためかも知れない。こういう愛情が基調となって、その「一つ葉」の名に哀れな興を覚えての発想であろう。
「俳句は愛情」と、しみじみ思う。
伝本により、「一葉かな」を「一つかな」とするものがある。そのため、そのいずれをとるか、論の多いところである。
「一つかな」をとる説は、芭蕉生前の集である『曠野(あらの)』に「一つかな」とあるのを証とし、「一葉かな」をとる説は、『泊船集』の注記をを論拠とする。
「一葉かな」のほうが、視覚的にも聴覚的にも自然な発想である、と思う。
「夏の山路をこうして辿りつつ眺めると、あたりの草は、青々と
葉を茂らせているのに、一つ葉だけは、以前と同様、少しも変
わらぬ一葉きりのわりなき姿で、そこに心惹かれる哀れを覚え
たことだ」
一つ葉にひと日の風の独り旅 季 己
「一つ葉(ひとつば)」は、イシノカワ・イワグミなどともいい、暖地の山間の岩の上や木陰に群生する、常緑のシダ類多年草である。
茶褐色の根茎が這い、ところどころに葉柄を立て細長い葉を一枚ずつつける。一般のシダ類のように、葉が細かく羽状に分かれていないので、この名がある。葉の表面は、厚い革質で濃緑色、裏面は、胞子ができると褐色となる。
葉は一枚ずつ生じ、冬も枯れないが春夏に増えもしない。そこに一種の寂しさの漂う植物で、そこが発想の契機となったものと思われる。
一つ葉は、持てるただ一枚の葉をかざして、春夏秋冬、変わらぬ姿で立っている。見つめているうちに、その寂しい姿に愛情を覚えてくる。この愛情は、自身の姿を知らず知らずのうちに、一つ葉の中に感じ取ったためかも知れない。こういう愛情が基調となって、その「一つ葉」の名に哀れな興を覚えての発想であろう。
「俳句は愛情」と、しみじみ思う。
伝本により、「一葉かな」を「一つかな」とするものがある。そのため、そのいずれをとるか、論の多いところである。
「一つかな」をとる説は、芭蕉生前の集である『曠野(あらの)』に「一つかな」とあるのを証とし、「一葉かな」をとる説は、『泊船集』の注記をを論拠とする。
「一葉かな」のほうが、視覚的にも聴覚的にも自然な発想である、と思う。
「夏の山路をこうして辿りつつ眺めると、あたりの草は、青々と
葉を茂らせているのに、一つ葉だけは、以前と同様、少しも変
わらぬ一葉きりのわりなき姿で、そこに心惹かれる哀れを覚え
たことだ」
一つ葉にひと日の風の独り旅 季 己