壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夕涼み

2009年06月30日 20時49分51秒 | Weblog
          住みける人ほかにかくれて、葎(むぐら)生ひ茂る古き跡
          をとひて
        瓜作る君があれなと夕涼み     芭 蕉

 前書きの意味は、「昔ここに住んでいた人が、よそに移って後、雑草の生い茂ったその跡を尋ねて」というのである。
 『伊勢物語』・『古今集』に見える在原業平の、
        月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
          わが身ひとつは もとの身にして
 の前書き「ほかにかくれにけり……」を踏まえたものと思われる。
 「君があれな」は、君がいたらよいのになあ、の意。

 芭蕉と「住みける人」との交情には、中国の古い、市井に隠居する人物のおもかげが感じられておもしろい。
 別の真蹟に「古園」と前書きするものがあるが、その「古園」という前書きを置いてみると、いっそうその感じが強い。

 『山家集』の
    「夏、熊野へ参りけるに、岩田と申す所に涼みて、下向しける。人に
     付けて、京へ西住上人のもとへ遣しける」
 と前書きした
        松が根の 岩田の岸の 夕涼み
          君があれなと おもほゆるかな
 を踏まえている。
 「瓜」については、『史記』の、秦の東陵侯召平が、秦の破れて後、長安城の東に瓜を作って、布衣の生活をしていたが、世人はこの瓜を東陵瓜と称した、という故事を踏まえたものといわれているが、その通りかも知れない。しかも、「瓜作る」が、いかにも俳諧を感じさせるものとなっている。
 「瓜」も夏をあらわすが、この句の中心は「夕涼み」なので、これが季語となる。

     「昔なじみの人の住んでいた跡を尋ねてみたが、雑草が生い茂って
      見る影もない。かつてここで瓜などを作って楽しんでいた君が、
      今もいてくれたらよかったのにと、独りあたりを歩いて、夕べの
      涼をとったことである」

        母の分もひとつくぐる茅の輪かな     一 茶

 今日は、六月のつごもり、「夏越の祓(なごしのはらえ)」である。各地の神社では、参詣人に「茅の輪」をくぐらせて祓い清める神事を行なう。夏の不祥を祓って、よき秋を迎えようとする気持ちの表れという。
 京都の伏見神宝神社では、毎年六月三十日の早暁、変人の「誕生奉告祭」を齋行してくださる。感謝の念でいっぱいである。


      大津絵の槍持奴 夕涼み     季 己